神薙羅滅の百合SS置き場

百合しか書かないし、百合しか書けない! 陰鬱な百合がメインのブログになります

デスゲームと共に歩む人生 『死亡遊戯で飯を食う』を布教したい!

 美少女が主人公のデスゲーム物。言葉を選ばずにこの作品への私の第一印象を書くと、地雷感が半端ない!になります。

 ですが、そんな予測は見事に外れました。今作は主人公を含めた登場人物全員が美少女であることに意味があります。

 デスゲームを鑑賞する好事家だって、おじさんが飛んだり跳ねたり、死んだりするより、美少女の方がいい。参加者が全員美少女の方が、興行として成り立つと、このデスゲームの運営は考えた。そうした世界観が背景にあります。

 後の項目で詳しく書きますが、第一印象の軽薄さとは裏腹に、デスゲームが行われている世界についての深い考察が、この作品ではなされています。

 

 デスゲームが日常的に開催されている極めて異常な世界を、二週間に一回のペースでデスゲームに参加し、前人未到の九十九連勝を狙う美少女が生き抜いていくライトノベル

 この作品の魅力を、大きく三つに分けて紹介できればと思います。とは言っても、デスゲームの内容については触れず、デスゲームを除いた作品としての完成度を主に伝えられたらと思います。なので、ネタバレは一切ありませんが、どうしてもネタバレが気になるという方は、カクヨムで一巻の序盤が、book walkerでまる読みもできるので、ぜひ試しに読んでみてください。

kakuyomu.jp

bookwalker.jp

 登場人物が全員美少女なのが偉い!

 百合好きにとってラノベ業界は厳しい世界かなという印象があります。女の子だけの世界に男性主人公が入ってハーレム!みたいな作品を踏むリスクが常にある。

 その点において、この作品(3巻時点)は安心して美少女同士の関係のみで作品が成立しています。この作風が、私がこの作品を大好きになった理由の一つです。

 私は、本屋で偶然目にした女性主人公の作品を見ると百合を期待して、ネットで試し読みを探し、男性キャラが出てくるかを確認するんですが、そうした百合過激派人間の視点で見ても、この作品は本当に女性しか出てこない。

 厳密に言えば出てきますが、モブレベルに留まっています。主人公専属のデスゲーム運営の仲介役のキャラがいて、容姿に対する言及がなく、さすがに男性キャラなのかなと思っていたら、挿絵で女性であることが判明するっていう……それくらい男性キャラが出てこないことが前提で書かれている印象です。

 百合以外にアナフィラキシーショックを起こしてしまう私としては、このまま女性だけの世界で完結まで突っ走ってほしいですね。

 デスゲームが複数回行われているという異常な世界に、現実感がある!

 さっきの要素が個人的な趣向の話だとすると、こっちは趣味で小説を書いてる人間として、この作者さんには一生敵わないな……と感じさせられた、比較的客観的な要素です。

 それと同時に、デスゲーム物というジャンルにおいて、この作品が圧倒的に秀でていると感じた部分でもあります。

 

 創作していると《作品のリアリティ》っていう言葉を目にする機会は、ままあります。

 極端な意見だと「魔法がある世界は現実味がない!」とかってなりますが、私が作品を作る上で意識している《作品のリアリティ》って、非現実的な要素の有無ではなく、非現実的な要素が社会に根付いている描写があるかどうかだと思っています。

 この作品は、デスゲームが社会に根付いています。たとえば、デスゲーム物って、運営側が圧倒的に社会的に強くて、政治・経済全てを支配しているから、法律が及ばない……そうした存在であることが、前提として共有されている印象があります。

 ですが、この作品はその前提を少しずらしています。デスゲーム被害者の会が、この世界にはあるんです。

 デスゲームが複数回行われ、参加者(言い換えるなら犠牲者)が増えれば増えるほど、遺族も増えていく。そうなると、いくら社会を支配していたところで、被害者の会が結成されるに決まっている。

 この作品のメインはあくまでもデスゲームの参加者なので、被害者の会に焦点が当たることはありませんが、主人公を取り囲む社会の一つとして、そうした要素がサラッと描かれます。

 

 デスゲームが社会に根付いていると感じさせる描写は他にもあり、それはデスゲームの攻略法やプレイスタイルが体系化されていることです。

 主人公を含め、この作品の登場人物の多くがデスゲームに複数回参加しています。例を挙げると、十回参加程度ではデスゲーム界隈ではルーキー扱いされるレベルであり、主人公のデスゲーム参加回数は四十回を超えていますが、真のベテランとは自他共に認められていません。

 それほどまでにデスゲームが開催され、参加者がいると、必然、攻略法が共有されたり、デスゲーム参加者同士でコミュニティが結成されることになります。

 これまで私が目にしたことがあるデスゲーム物でも、こうした体系化の要素はありましたが、この作品の体系化の解像度は凄まじいものがあります。

 トラップだらけの空間からの生き残りをかけた《脱出型》。プレイヤー同士での殺し合いがクリア条件となる《対戦型》。過酷な環境下で一定期間生き残ることが条件の《生存型》。この作品において、デスゲームは主にこの三つの大分類がプレイヤー間でなされており、確かにどれもデスゲーム物で一度は目にしたことがあるパターンです。

 言われてみると納得ですが、こうも詳細に作品内で分類するのは、とても珍しいと思います。

 こうしたプレイヤー側の体系化は運営側へも適応されており、たとえば《生還率が七割になるようにゲームは設計されている》ことが前提知識として共有されており、その情報をもとに、ゲームの明文化されていないルール(クリア条件となる死者数さえわかれば、経験者は生還率七割の法則を用いて、参加者の総数を予測できる)を明らかにできたりします。

 また、デスゲーム物といえば、やたら人助けに固執したり、極端に殺戮を好む人物などが定番ですが、この作品においては、そうした要素も社会的な要素に落とし込まれています。

 前述の通り、この作品の世界では、デスゲームに複数回参加していることが前提のため、その結果、以前のゲームで顔を合わせた相手と再会するという場面が多々描かれます。

 そのため、登場人物の多くが、倫理観や正義感ではなく、攻略法の一つとして、極めてゲームの攻略に対して協力的です。

 どのゲームも生還率が七割になるよう調整されているので、絶対に誰かが死ぬルールになっているのですが、言い換えれば死ぬ三割に入らなければゲームに勝てるわけです。ならば、露悪的にプレイするよりも、協力的にプレイすることで好感度を稼いでおくことは、いざという場面で《ルール上、絶対に殺される必要がある三割》に押し込まれるリスクを低下させるわけです。

 そうした生存戦略の延長として、多くのキャラが師匠を持ち、弟子を取ったりします。複数回デスゲームに参加するため、デスゲームのノウハウと引き換えに信頼を得ることが、投資足り得るわけです。

 多くのデスゲーム物が一回のゲームを生き抜くことに焦点が当てられていますが、今作は複数回のデスゲームを生き延びることが前提なので、師弟関係という絶対的協力者を得ることのメリットは極めて大きいわけですね。

 このように、デスゲームがおびただしい回数行われている世界だからこそ、目先のゲームの勝敗だけでなく、先々のゲームでの攻略を考慮して、スタンドプレーを好むプレイヤーですら協力的です。

 なので、デスゲーム物でありながら、歪ではありますが人間関係は牧歌的だったりします。

 

 他にもデスゲームが社会に根付いていると感じさせる描写は多々ありますが、こうした要素の積み重ねによって、この作品はデスゲーム物としてはある種異質な……理不尽な命を賭けのゲームに参加させられたプレイヤー同士の醜い感情の見せつけ合いではなく、理路整然と冷静に攻略を目指すデスゲームのプロフェッショナル同士の戦いという空気感が完成しています。

 と、ここまでデスゲームが社会に根付いていると書いてきましたが、ではなぜ人々はこうもデスゲームなんて物にのめり込むのか。そこにも、この作品は焦点を当てています。

 

 デスゲームにしか居場所を見出すことができない、社会のはぐれ者の人生観がよい

 ラノベに限らず、こうしたオタク向けコンテンツにおいて、《一人称が俺の女性キャラ》や《日常的に「〜ですわ」などのお嬢様言葉を使うキャラ》などはよく目にします。

 この作品にもそうした人物は登場するのですが、この作品はそうしたいわゆる《萌え要素》、あるいは《属性》は、社会参画を阻害するものとして描かれます。

 考えてみれば当たり前のことですが、「〜ですわ」で話す人と友達になれるかという、厳しいですよね。主人公のように自分の意志で、隔週でデスゲームに参加し、必要とあれば人を殺し、自身の肉体の欠損すら辞さない人間が、学校に馴染めるわけないですよね。

 この作品にも、借金返済のためにゲームに参加するプレイヤーも登場するのですが、それはごく少数です。

 作品内で体系化されている前提情報として、そうしたやむにやまれぬ事情で参加している人間の参加回数は、多くても六回程度とされており、それ以上の参加回数の人間は、進んでデスゲームに参加しています。

 表の世界に居場所を見つけることができなかった。そうした孤独を抱えた人間の心の隙間を埋めているという、奇妙な共生関係がプレイヤーとデスゲームの間に結ばれている。

 

 デスゲームなんて危険なことやめられるように真っ当な就職先を紹介すると、主人公がデスゲーム被害者の会に所属しているおじさんに諭されるシーンがあるのですが、そこで主人公が感じることに、すごく共感できてしまう。

 自分が異常であることなんて言われなくてもわかっている。でも、そうした生き方しか選ぶことができないし、デスゲームにしか生き甲斐や心の居場所を見出すことができない自分がいて、そこから救い出そうとする人に出会うと、自分の全存在を否定されたように感じてしまう。

 その感情の生々しい痛みが、わかってしまう。心の居場所を学校や労働といった社会に見出せた人間には決して理解できない、生き辛さ。そこを的確に埋めてくれるデスゲームという異常な世界。

 デスゲームの世界では、デスゲームという異常性を共有し合う仲間がいて、でも必要があれば彼女たちを殺すし、自分が殺されたりする、ドライな関係。

 表の世界では決して成立し得ない人間関係だげか、心の隙間を埋めてくれる。

 そうした正常ではない人間の人生観が、主人公を含めて多数のプレイヤーを通して多角的に書かれているのが、今作の大きな魅力だと思います。

 

 デスゲームって、とにかくネガティブなものとして捉えられていて、デスゲームに肯定的な人間は大抵殺人鬼というのが、いわば定石だったように思います。

 ですがこの作品は違います。殺人鬼は登場しますが、そんなプレイヤーは少数派です。この作品でスポットが当たる人物の大半が、デスゲームは命懸けで真剣に打ち込む価値あるもの。もしくは、普通の人生を歩むことができなかった自分の心の居場所になってくれる世界。そう認識しています。

 その異質な価値観が、たまらなく愛おしいのです。

 終わりに

 今作を読んで個人的に思うことは、デスゲーム物へのハードルがすごく上がってしまったな、ということです。

 デスゲーム物(それの類似としてのギャンブル物)の魅力は大きく二つだったと思います。

 一つは、やはりデスゲームそのものの魅力。デスゲームの理不尽なルールの裏に隠された、運営の意図。それを読み、他の頭の切れるプレーヤーを出し抜いたり、あるいは運営そのものを欺いたり。そうした頭脳戦を読みたくて、私はデスゲーム物やギャンブル物を愛好しています。

 そうしたデスゲームそのものの完成度も、今作は高いです。この刊行速度でこの完成度は、趣味で小説を書いている人間からすると、異常としか形容のしようがありません。

 そして二つ目の要素として(これはデスゲーム物に限らずですが)登場人物の魅力も大切な要素です。命懸けのゲームという極限状態で見せる、優しさ、醜さ。そうした要素も、今作にはしっかりとあります。

 それに加えて、デスゲームが身近にある社会という要素まで、極めて高い完成度で足されている。体系化され、攻略対象や人生の目標と多くの人間に解釈されるようになったデスゲームという、新たな地平が切り開かれてしまった。

 デスゲームという非現実的な要素を、現実に存在するものとして、肌に馴染むような形に加工することに成功してしまった。

 まさに発想の格が違う。ここまでされると素直に、負けたー!と認めるしかない。そんな作品です。