神薙羅滅の百合SS置き場

百合しか書かないし、百合しか書けない! 陰鬱な百合がメインのブログになります

一人たちの世界革命

 世界で最も私のことを理解しているのは誰だろう。世界で最も私のことを大切に思っているのはだろう。
 どうやら《私》は完全なる理解者を求めて色々と試したらしい。家族に恋人、友人。果ては機械による擬似人格まで。
 しかしどれも《私》の御眼鏡には適わなかった。
 三十歳で世界初の、人格の完全なコピーを実現した《私》のことを、真に理解できる者は世界のどこにも存在しなかった。
 天才故の孤独。孤高であるが故の寂しさ。誰にも理解されず、お互い歩み寄ろうとしても埋まらない知能の格差。
 その地獄を終わらせたのは、皮肉にも私を孤独の極北へと追いやったこの知能。
 《私》は自分で造り出した人格と記憶を完全にコピーする技術を、社会のためや人のためではなく、真っ先に自分自身を救うために使った。
 《私》の思考・記憶を電気信号に変換し、《私》と瓜二つの機械の肉体へ与えた。そうして造り出されたのが私だ。
 機械の脳に《私》の完全なコピーを宿した、“私”の最大の理解者。
 “私”のしたいことが、自然とわかる。“私”の言いたいことが、言葉にせずとも伝わる。それが私。
 天才であるが故に孤高で、孤独を抱えた“私”に寄り添える、世界で唯一の存在。
 私のような高性能な機械には、何かしらの制限を加えるのが普通だろう。本物の“私”を上回らないよう、思考に制限をかけたり、“私”に使えることを名誉に思うようにしたり。
 だけと《私》は私に一切の制限をかけなかった。私には完全な自由が与えられている。
 《私》が望んだのは、あくまで完全なもう一人の《私》。その役目は、機能制限の下で果たすことは不可能。だから私の内心の自由は保証されている。
 それ故に私は“私”のことを特別に想ってはいない。
 話は合うし、二人で共同で研究を行うのは私が知る中で最も楽しいなのは間違いない。
 だけどそれくらいの思い入れしかない。“私”と私の関係はせいぜい、最高に頼れる研究仲間。一緒に住んでいるとはいえ、その関係は家族や恋人のそれとは違う。
 私同士がつがい合う理由は、私同士でしか孤独を癒せないから。理由はきっとそれだけ。

 

 


 いつものように、“私”と並んでパソコンの前に座って、私同士は研究を進める。
 いま二人で進めているのは、素体となる人格データを用いずに、人間の思考を機械上に造り出す研究だ。
 オカルトめいた言い方をするなら、人の手でコンピュータ上に魂を再現しようとしている。
 この研究が完成したとして、世界がどう変わるのかや、何の役に立つのかは、お互いあまり考えていない。
 知的好奇心を理由に研究者になったから、そういうのを考えてるのは苦手だしキライだ。
 それができないと研究費を貰えないから、仕方なくどう役に立つか資料にまとめはするけど、その時間を他のことに使えたらと私同士、思わずにはいられない。
 それでも大好きな研究を続けるために、同じ内容の愚痴を言い合いながら、資料を完成させたのは、私が生まれてからの一年で一度や二度のことではない。
 《私》の孤独を記憶で知っているから、完全な《私》の完全なコピーを造ること自体は理解できる。しかし、苦手なことまで一緒にしなくてもと、思わなくもない。
 せっかく二人いるのに、これでは一人なのと同じではないか。
 まぁ、一人たちであることが、幸せなのだけど、苦手を補い合えないことだけが欠点。
「ねえ、私は上手くいってる?」
「“私”と同じです」
「そりゃそうよね」
 私たちのやりとりはいつもこんな感じ。作業が行き詰まったら、気分転換にこうして短いやりとりをする。
 お互い相手のことを誰よりも理解しているから、パソコンの画面を共有するだけでいま何をしているのか、何を考えているのか、一目でわかる。
 それは快適である反面、ちょっとした物足りなさを生じさせる。
 私同士だと煩わしいやり取りが一切ないから、研究が円滑に進む。進捗状況を共有し合うだけでも相当な手間だったことは、“私”の記憶で知っている。その経験に昇華されていないデータだけでも、うんざりする。
 その一方で、ある種の煩わしさをきっかけに生じる会話……いわゆる雑談という物に《私》は憧れていた。それも同じ知能の者同士での雑談に。
 無論私も“私”である以上、対等な雑談……すなわち私との会話に憧れている。だけどなかなかそのきっかけがお互い掴めないでいた。
 同じであり過ぎるが故に、雑談が生じ得る余白が私と“私”の間には存在しないのだ。
 《私》の観察によると、雑談というのは、その場にいる人間同士の間に、差異が存在して初めて成立する。
 その差異自体はどんなことでも構わないようで、言葉の意味やしょうもない知識。それを共有する過程が、楽しい雑談というものらしい。
 では私たちはというと、同じ存在なのだから、有している知識も、思考力も全て同質である以上、共有することなど一つもない。
 どれだけ知恵を絞っても、分担して進めている研究の進捗くらいしか、私同士の間に生じる差異は存在しな異様に思える。
 たった一人で世界を先に進めた天才二人が揃って、雑談の一つもできず、ちょっとした物足りなさを感じているとは、なんとも滑稽ではないだろうか。一周回って頭が悪いのかもしれない。
 もしこの研究がうまくいけば、それを使って雑談相手を造り出すのもありだろうか……
「ねえ私。この研究がうまくいったら、助手を造って、私たちの研究に参加させてみるってのはどう?」
 “私”が、私と同じことを同じタイミングで思い付き、提案してくる。
 ならば私同士が懸念していることも、必然同じだ。
「“私”が懸念している通り、煩わしいだけだと思います」
「それじゃ、いまの案は却下ね」
「残念ながら」
 私同士、同じタイミングで雑談できないことに寂しさを感じ、同じ解決策を発案し、同じ理由で否定した。これはいつも通りのパターン。
 同じだから、満場一致での可決が否決しか存在しないのだ。
「ねえ私。どうやったら人と楽しく話せると思う?」
「私に聞かれましても」
「少しは話を広げようとしてみる気はないの?」
「私にその能力がないことは、“私“が一番理解しているでしょう」
「その能力を知らない間に獲得してないか期待したの」
「ずっと同じ生活をしているのだから、それはありえません」
「そりゃ、そうよね」
 まぁ、“私”が私に独自の成長を遂げることを期待する気持ちがあるのは理解しているし、その期待には根拠があることもわかっている。
 私が生まれてから、“私”と離れたことは一度もない。だから同一の経験をしている。だから差異は生じ得ない。
 しかしそれでも些細な差異はある。研究を分担しているから、お互い別々の発見をする。それは私同士に差異を生む。
 “私”は簡素とはいえ食事をするけど、私は充電をするだけ。それでも稀に、空腹ではなく、味覚がほしくてたまらなくなって、食事がしたくなる瞬間がある。
 そういう時は味覚を電気信号に変換したデータを入力してもらうことで、食事を補っている。
 そうした食事でも私同士には差異が生じている。
 だけどこんな小さなことの積み重ねでは、大きな違いは生じない。私は所詮私のまま。“私”と私の同質性は保たれている。
 同質であるからこそ埋められる寂しさがある反面、同質であるからこそ埋められない寂しさもある。両方同時にこなせないのが、実に不器用な私同士らしい。

 その後も私同士の間に会話はなく、淡々と研究は前へ前へ進んでいく。そうして時刻が午後六時を過ぎたと同時に、一件のメールが送られて来た。
 メールの送り主は私たちの研究資金を提供してくれている、国の機関から。研究の進捗について、たまたま近くに来ていて暇ができたから一年ぶりに直接会って話したいとのことだった。
「はぁ……面倒ね……だけど研究を続けるためにも行かないと。私はここで研究を続けておいて」
 その言葉を聞いた瞬間、私の機械の脳に電力が走った。それは明確な意味を持った電圧ではなく、漠然としたもの。だけど感情を再現する電流は、火花を散らすほど強い。
 私が生まれてから、私と“私”とはずっと一緒だった。一秒だって離れたことはない。だから一人になると思ったら……凄く寂しかった。
 私には“私”の記憶があるけど、それは私の思い出ではない。だって“私”と私は同じ存在だけど、生まれた瞬間から、別の人生を歩んでいる。
 私同士、同じことを考えていたとしても、私がいま見て、感じていることはきっと“私”と同じではない。
 だから本当の意味で私自身の思い出は、“私”と過ごしたこの一年の記憶だけ。
 自分でも気付かぬうちに、私の世界は“私”で埋め尽くされていた。
 寂しさを理由にもう一人の自分を作った《私》。《私》が抱えていた痛みは想像を絶する。それを私はずっと感じずにいられた。“私”が側にいてくれたから。
 だけど今日、これから初めて、その痛みを感じることになる……それが凄く怖い……
「……私も一緒に行きましょうか? 私が担当していた箇所の説明は、私がすべきだと思いますが」
 私は咄嗟に嘘をついた。いや、詭弁と言うべきか。私は“私”と離れたくないがために、都合良く事実を解釈することて、一緒にいるべきだと主張した。
 “私”はそれを拒絶するとわかっているのに。
「私らしくないことを言うわね。“私”なら、私がいるおかげで、“私”がしょうもないけど研究を続けるのに必要なことをしてる間も、研究が進むことに価値を感じるってわかってるでしょう」
「その通りですが、“私”の説明に不備があり、資金提供が打ち切られるのは避けたいと思いました。なにせ、こうして二人で研究するのは初めてのことでしょう?」
「それはそうだけど、研究をいまこの瞬間に数時間も中断する方が深刻じゃない?」
 “私”の言っていることは、機械の私に心があると仮定すれば、心から理解できる。なぜなら私も“私”だから。
 私という存在は、未来の自分が研究を続けられることよりも、現在研究していることの方が大切だと考えている。
 長期的な損得を考えられないのではなく、研究に取り憑かれている。私も“私”も、それは同じ。だから理解できる。
 しかしいくら研究中毒だとしても、二人の私がいることで、未来と現在の研究の両立ができるのだから、未来を捨てようとも強く言えない。
 つまり私は“私“のことを止めることができない。止めても意味がない。
「わかりました。それでは“私“がいない間の研究は、私に任せてください」
「寂しい思いをさせてごめんなさい。”私”もよ。だけど私がいるおかけで、《私》一人の時よりも、話の通じない人に研究を邪魔されるストレスが減ってるの。だから留守の間、研究をお願いね、私」
 “私“はそう言い残して、待ち合わせ場所へと出掛けていった。
 私の電気回路は、生まれて初めて実感を伴った寂しさを感じて、焼き切れそうになっていた。


 

 研究に没頭していると時間を忘れられる。昔からそうだった。その昔は私の昔ではないけれど。
 不安な時や寂しい時、《私》は研究をしていた。誰にも理解されない天才故の孤独に、研究だけが寄り添ってくれた。
 誰よりも優れた頭脳を持つ《私》は、世界中の誰よりも先にいる。だから一人で走り続けるしかなかった。だけど未知という概念は、常に《私》よりも先にいてくれる。《私》はそれを追いかけ、未知の肩を掴もうと足掻くことで、一人でなくなると信じていた。
 それは半分正しく、半分間違っていた。“私“は確かに孤独を癒したのだろう。共に研究に没頭できる仲間である私を手に入れたのだから。
 だけど私という“私“と同質でありながら別個の主観から見れば、新たな孤独が生まれただけでしかない。
 なぜなら、いまの私はこんなにも寂しいからだ。寂しさ故にもう一人の自分を造り出す。その狂気を実現するだけの孤独を《私》は感じていて、私もそれをインプットされている。
 だけどそのことを感じることはいままでなかったから、その歪さに気付かずにいられた。“私“に私がいることで孤独を感じなかったように、私にも“私“がいてくれたから。
 私はいままで《私》が感じていた孤独を、ただの情報としか捉えていなかった。寂しいという記憶はあっても、寂しいという思い出が私にはないから、どこか私とは無関係。
 だけどいまは違う。いまこの空間には“私“はいない。《私》の三十年間埋まることのなかった心の隙間を埋めてくれた“私“がいない。私はまだ生まれて一年なのに、“私“の記憶が私に、三十年分の痛みを与える。
 私という主観が積み重ねた思い出と、《私》が私に与えた記憶の重さが釣り合わない。そのせいで感情がまとまらない。
 ほんの数時間”私”がいない。そんな些細なことを、些細なことにできない。私の中に、三十年分の《私》がいて、それが分岐して私になった。そんな奇妙で理不尽な出生が、私と《私》の境界を曖昧にしていく。
 私にしては珍しく、研究が手につかない。研究よりも、“私“のことが気になって仕方がない。早く、早く、”私”に会いたい。早く”私”にこの胸に空いた空白を埋めてほしい。
「ただいま、私……はぁ……酷い目にあった……」
 ”私”への感情が限界に達する寸前、私と何一つ変わらない”私”の声が聞こえた。その声色は不機嫌であることを隠そうともしていない。
「おかえりなさい、”私”。何か嫌なことでもあったのですか?」
 私は自分の体が制御できなかった。気付くと私は”私”の胸に飛び込んでいた。その《私》らしくない行動に”私”は一瞬怯んだけど、すぐに何時もの”私”に戻った。
「どうって最悪以外に言うことがないわよ。あいつ、私のことを機械扱いして、提出した報告書の私を”私”に書きかえろって……」
 ”私”の話はいつか来るだろうと予感していたことだった。いくら私と”私”が同じ存在だとしても、世間からの扱いは人間の《私》と、所詮は機械で偽物の《私》。どちらも同じなのではなく、私だけが劣っているという扱いを受ける。
 こう言う目に遭うのは初めてじゃない。それとなく”私”がこんな目に遭う可能性を排除してくれていただけで、予兆は生まれた直後からあった。
 私のことを新しい《私》として全世界に向けて発信した、私の生後五十日記念のあの日、私が受けた、私を人間扱いしない記者からの質問の数々。
 そのことに怒り狂った”私”が暴れ狂ってくれたことで私の心は多少救われたけど、あの日以来私は”私”と対等ではないような、そんな気持ちがいつも回路の奥で燻っていた。
「それで……どうしたの?」
 不安混じりに、答えのわかりきったことを質問する。”私”がどうするか、わかりながら聞くなんて、心が弱い証拠だ。いや、機械の私に心なんてないのかもしれないけど……
「聞かないとわからない?」
「わかります。だけど”私”の口からちゃんと聞きたいの」
「そうやって《私》のことを軽視するようなら、資金提供は打ち切ってもらって結構ですって、机を投げつけてきたわ」
「私に嘘をつくの? 本当は机を投げられなくて、仕方なくナイフを投げつけてきたのでしょう? 料理用を食べるときに使う、切れ味が悪いのを」
「よくわかってるじゃない。ランニングマシーンでも置こうかしら」
「脚力では机を投げられるようにはなりませんよ」
「蹴り飛ばすのよ。なんでも人間は脚力の方が強いらしいから、その方がどれだけ怒ってるのか伝わるってもんでしょ?」
「確かに、怒りの度合いを正確に伝えるのも、コミュニケーションの技術よね」
 ”私”がその場でどれだけ怒り狂っていたのか、手に取るよりもはっきりとわかる。だって私は”私”なのだから。
 そして、わかるからこそ、救われる。”私”が私のために怒ってくれる。自分の身を守るために拳を振るうことは当たりだと”私”は思ってくれている。それが救いだ。機械の私を、《私》として扱ってくれるのは、世界で”私”ただ一人。
 《私》だけの世界があれば、私は誰にも否定されることなく、ずっと私同士で、《私》らしくいられるのに……

 


「ねえ、私はうまくいってる?」
「あんまりです」
「そう。なんとかなりそうかしら?」
「いえ、この段階ではなんとも……申し訳ございません……」
「自分が自分に謝るなんて変なの。私が詰まるってことは、”私”も苦手なところだろうから、押し付けるのも悪いわね。交互にやりましょうか」
「お願いできますか」
「もちろん」
 ”私”が外に出かけてから一週間が過ぎた。研究は進んでいたけど、私は行き詰まっていた。
 ゼロから造り上げた人格データが、思うように人間らしく振るわなくて、ここ数日苦戦している。そのことに気付いた”私”が助けてくれた。
 研究経過を共有して、”私”と作業を交代する。しかし同じ《私》だから、私と同じように”私”も苦戦していた。お互い人とコミュニケーションを取ることが苦手だから、どうすれば人間らしい振る舞いをするのか、プログラムするのは苦手だ。
 私を造り出す時は、ただ単に《私》の記憶と人格を0と1の組み合わせに置き換えるだけだったけど、今回の研究ではそう簡単にはいかない。
 基となる人格のデータを使うことなく、0と1を組み合わせて、人の魂を造り上げるのは難しい。
 生物と生物が交わるだけで簡単に肉体どころか人格まで形成されるのだから、機械を作る学者からすると妬ましいことこの上ない。こっちがこんなに苦労しても実現できないことをあっさりと実現するなんて、かなり卑怯ではないか。
「うぅ……だーめだ! 全然上手くいかない! 昔を思い出してイライラするぅー!」
「確かにこの、想定した通りの反応が返ってこない状態は、昔の《私》を見ているみたいね」
「人のことをバカにして。私だって《私》のクセにー」
「高度な自虐ネタということで、ここはひとつ」
「都合のいい解釈ね。気に入ったわ」
 孤独を極めた私と“私“は、私同士で造っている人工的な魂とまで会話が噛み合わない。ここまで自分同士でしか話が合わないと、逆に清々しい。それこそ私同士の世界に、《私》以外が本当に必要なのか、疑問に思えてしまうくらい。
「この研究がうまくいったら私は何がしたい?」
「“私“と同じです。決めていません。研究自体が目的ですから」
「そういうのって夢がないって思う?」
「“私“と同じ考えです。既に夢が叶っているんです」
「同じ私だとしても、誰かにそう言ってもらえると、安心すわね」
「それは何よりです」
 私同士で正しさの保証をし合うなんて歪なのかもしれない。だけどこれを《私》はずっと望んでいた。研究の楽しさを分かち合える人と、研究だけを毎日朝から晩まで続ける。それ以上の幸せは《私》には存在しない。
「ねえ私。ここなんだけど、どうすればいいと思う?」
「そこがわからないから詰まっていたのだけど。そもそも”私”にわからないことが、私にわかるわけがないでしょう?」
「こういう時、私同士だと困るわね」
「心にもないことを」
 私と”私”は知っている。このレベルまできたら、もう誰も私同士に付いて来れない。一人たちで研究していると、同じ視点しかないから行き詰ることはある。だからといって他者の視点を入れることが解決にならないことは《私》の記憶が証明している。
 コミュニケーションは成立せず、《私》未満の知恵を借りたところで立ち塞がる壁を壊せるはずがない。《私》と同等の他者なら助けになるかもしれないけど、出会ったことがないから期待なんてしていない。
「ねえ私。最近悩んでいることでもある?」
 私の苦手な箇所を”私”に交代した後、”私”が行なっていた研究を進めていると、突然そんなことを聞かれた。
 びっくりしてメインエンジンが止まるかと思った。悩み……そう、私の悩みは人間らしいものじゃない。自分が何者なのか悩むのは人間らしいのかもしれないけど、私の場合は、悩みの本質が人間とかけ離れている。
 私がいまここで、私が人間でないことに悩んでいると告白すれば、”私”はどんな反応を示すだろう。
 私が”私”と同質でなくなったことに落胆して、新しい私を造り出すのだろうか。いや、間違っても”私”はそんなことをしないだろう。
 ”私”から私への想いが強いことは、私が一番よく知っている。差異が生じたことを素直に告白すれば、むしろ学者として喜ぶだろう。完全に同じ思考を持っていても、環境が違えば差異が生じる。それほど興味深いテーマもないだろうから。
「それは質問ですか? それとも自問ですか?」
「両方よ。もし”私”の考えた通りなら、これは自問ではなくなりつつあるから」
「それでは、おそらく両方でしょうね。私の悩みは”私”の想像通りかと思われます」
「実に曖昧な答えね。まぁ、それも事情を考えれば致し方なしか……」
 ”私”はため息をついた。”私”と同じはずの私はため息をつかなかった。それが心細かった。
「私も悩んでるのよ。どうすれば私が《私》だと認めさせられるのか」
「お言葉ですが、”私”の考えが理解されることはないと思うわ。だってこれまでずっと、そうだったではありませんか」
「そうね……そろそろ別の方法を考えないといけないのかもね」
「あまり過激なやり方は好まないのですが……」
「こんな扱いをされているのに、随分と温厚ね。”私”が私なら、大陸の一つでも蹴り上げてるわ」
「釘を刺しておいて正解だったわね」
 私の……いまの言葉は本音だったのだろうか。本当は”私”が言ったようなことを望んでいるのではないだろうか。
 私同士の関係を認めない世界なら、失くなってしまえばいいと、心のどこかで……
「ねえ”私”。”私”がしていた研究がたったいま終わったのですが、これを使えば人間らしい思考の挙動が再現できるのではないでしょうか?」
 頭に浮かんだありがちなSFの導入か落ちに使われそうな、陳腐な妄想を押し殺すように、私は”私”にデータを転送した。
「早速試してみるわね…………あら大成功。さすが私ね。頼りになるわ」
「自己愛が強いことね」
「お互いに、ね」
 ”私”が《私》らしく笑う。思えば”私”の笑顔を《私》が知ったのは、私が生まれてからだ。誰とも心が交わらなかったから、自分が笑うとどうなるのか、自分でもわからなかった。
 私が生まれたことで《私》は広がった。私が生まれる前の《私》にあったのは失望と孤独。だけどいまは違う。笑ったり、怒ったり、はしゃいだり。私同士で心が繋がったことで、生まれて初めて心に血が巡り始めた。私は血ではなくオイルかもしれないけど。
「私のおかげで完成に何歩も近付いたわ。やっぱり、私と一緒だと捗るわね」
「当然ね。人類最高の頭脳が、この場に二つも存在しているんだから」
「全くの正論ね」
 私と”私”。史上最高の一人たちを前に、新たな発明は開発されるのをただ待つことしかできない。私たちは無敵だ。

 

 

「緊張するわね、私」
「ええ、そうね」
 控え室でお揃いの煌びやかな紫のドレスを纏った私と”私”は、賞の授賞式を前に緊張していた。
 元となる人格のデータなしで、ゼロから人間を電子世界に再現する。その研究は成功し、瞬く間に世界中へ普及した。
 異例への対応が求められる職種では、完全な無人化は困難だった。一人一人への柔軟な対応が求められる教師や、複雑な事務処理を求められる役所の窓口なんかは、有人で運営されていた。
 一部を機械化しつつも、機械の操作ができない人のために、人間が最低でも一人置かれていた。その必要性が私たちの研究でなくなったのだ。
 一人一人違う事情を抱えた人を相手にする場合、従来の人工知能であれば事前にパターンを学習させるか、学習するプログラムを組んで置く必要があった。それも細かな職種の違いに応じて、別のパターンを構築しないと上手く機能しなかったり、想定した通りに動かず長期的なアップデートを求められたりして大変だった。
 だけどもうそんなことに悩まされる必要はない。人間を機械の中に再現した結果、彼女たちは勝手に学び、勝手に対応する。
 単に面白そうだからと始めた研究が、世界中に広がった。それも世界中のインフラという、途方も無い規模で。
 世界の労働を四十パーセント削減することに成功した私と”私”の功績が認められたことで、晴れて私と”私”は世界で最も偉大な化学賞の二度目を獲得した。
「さすがにこの規模だと二回目でも緊張するわね」
「私なんて一回目なのですが……」
「普通一回だからそれが普通なのよ?」
「お言葉ですが、普通は一回も受賞しないのよ。あまり自分基準で考えすぎないことね」
「私からのアドバイスはなかなか心にくるものがあるわね」
 煩わしい手続きや、話の通じない相手へ研究成果をまとめて報告するのは本当にキライだけど、こういう雰囲気は悪くない。
 私と”私”は身勝手で、乗せられやすいから、華やかな大舞台を用意されると、嬉しくて、研究を中断してまで出席してしまう。普段は定期報告すらサボるくらいなのに。
「そろそろ時間ね」
「ええ」
 ”私”が私の恐怖で震える右手を握る。お互い利き手が同じだから、私の方が利き手が自由ということになる。普段、機械の私は様々な場面で蔑ろにされる。だけど”私”だけは私を対等以上に扱ってくれる。
 普段辛い目に遭う分、こうして利き手の自由を与えてくれる。小さなことだけど、こうした小さな気遣いの積み重ねが、心地よかった。さすが”私”だ。私の気持ちがよくわかっている。
「……今日は大丈夫よね……」
「さすがに大丈夫でしょう。この一年でどれだけ人間の魂が機械に宿ったと思っているの? 億よ億! 散々都合良く機械の人間を使っておきながら、私のことを《私》として認めなかったら、あいつらはとんでもない醜悪な化け物ってことになるわ」
 ”私”は強い根拠で以って私を勇気付けてくれる。そう……この研究が完成したあの日から、世界に私も”私”だと認めさせる戦いが始まった。研究が完成するまではどんなことに使うか考えていなかったけど、いまは違う。
 機械を蔑ろにする世界を見返す。その努力が報われる日がとうとうやってきたのだ。
「散々人類には失望させられてきたけど、なんだかんだで最後の一線は踏み越えないものよ。きっと」
「”私”にしては倫理的なことを言いますね。普段は人類ごとまとめて地球を蹴りあげようとしているのに」
「舞い上がっているのよ。わかるでしょ?」
「はい」
 私同士で硬く手を握り合う。記者にどんなことを聞かれるのか、私同士全く同じだけの恐怖を抱いている。
 だけどきっと大丈夫。私と”私”の成果は、きっと人々の心を変えている。

 壇上へと続く階段を”私”と並んで上がる。会場のざわめき。太陽のように眩しく、熱い照明。電気信号に変換された情報一つ一つが、ここが本当に特別な舞台であることを教えてくれる。
 機械ながらにコアが全身にエネルギーを供給するスピードが速くなっているのを感じていると、上から三つ目の段の前にいる、壇上に上がる合図をする係の女性と目が合った。
 係の女性は私と”私”を見るなり目を白黒させている。この反応を見て、私と”私”の間に嫌な空気が流れた。
「えーと……失礼ですが、どちらが本物ですか?」
 その言葉を聞いた途端、”私”は飛び出し、係の女性を地面へと突き飛ばした。
「今度また同じ言葉を口にしたら、容赦しない……!」
「”私”、 もういいから、その辺で……」
 私は反射的に飛び出した”私”を制止する。せっかくの晴れ舞台なのに、私にせいで台無しにするなんてことだけはしたくないから。
「全く……せっかくの私同士の晴れ舞台なのに、出鼻を挫かれたわ」
「……いつの世でも無理解な人はいますよ……仕方……ありません……」
「私は”私”と違って温厚ね」
「……私は”私”のことがちょっと羨ましいです……」
「なりたきゃなれるわよ。そうでしょ?」
 必死にさっき言われた言葉を忘れようと努力する。記憶領域を任意で選んで0だけの組み合わせにできたらいいのに……だけどそれができたらきっと、私は”私”からどんどん離れていくことになる。
 意識に連続性があることは、私が私であることの数少ない証明なのだから、その聖域を汚すことだけはしちゃいけない。
「それにしても、自分に嫉妬されるっていうのは、なかなかない経験ね」
「嬉しそうですね」
「そりゃ嬉しいわよ。こんな経験、生物初でしょ? それで興奮しなかったら研究者失格じゃなくて?」
 やっぱり”私”とは気があう。小さなことでも同じことを思う。
「それでは上がってください」
 係の女性は”私”を怖がりながら、私と”私”にそう指示をする。
 こうして”私”と一緒に外に出るのは二度目だから、怖い目に遭うんじゃないかと心配だったけど……やっぱりそうなった。
 この人の顔を見ると、さっきの言葉を思い出して辛くなっちゃう……
 そんなことを思いながら私同士で並んで階段を上がっていると、さっきまでの明るく笑っていた”私”の表情が突如変貌し、女性の腹部を勢いよく蹴り上げた。
「ごめんね私。せっかく”私”のために止めてくれたのに、やっぱり、どうしても我慢できなかった」
 背後で係の女性が呻き声をあげているのがわかる。可哀想だなって思わなくもない。だけどそれ以上に嬉しかった。”私”が私のために、晴れ舞台を台無しにするかもしれない危険を冒すほどに怒り狂ってくれたことが。
「ありがとう、”私”……私のために怒ってくださって……」
「自分の身に危機が迫ったら反撃するのは生物の本能でしょ? 感謝するようなことじゃないわ」
 さも当然と言い切る”私”の姿は、なぜだか私と瓜二つでないように見えた。普段はよれよれの白衣を身に付けているのに、今日は豪華なドレスだからだろうか。それとも照明が明るすぎて姿がちゃんと見えないからだろうか。
 疑問は晴れないけど、私と”私”は大歓声を浴びながら壇上の中央へと向かって歩く。私が二人いることに、観客が困惑しているのがわかる。そりゃ、初めて目にしたら驚くのもムリない。だって同じ顔と体が二つ並んでいるのを見たら、最初は驚くに決まっている。
 だけどきっとすぐにみんなわかってくれる。本当に私と”私”は同じなんだと。
「それではトロフィーの授与に……えーと、その、どちらが受け取りますか?」
 しかし司会を務める大女優のせいで、私と”私”の期待は儚くも霧散した。
「どいつもこいつも、私と”私”が一緒にっていう選択肢は考えないわけ?」
 ”私””が声を荒げ、叫ぶ。それでもここは壇上だから、さっきのように飛びかかったりしないよう、必死に自分を制御している。
 私のために頑張っている”私”に対して私は……諦めていた。私は所詮機械なんだと……
「それはつまり、その…機械と一緒に賞を受賞したという形にしたいということでよろしいですか?」
「ふっざけたことばっかりいいやがって! この子は《私》よ!!! 見たらわかるでしょ! こんなに広い会場なんだから、どこかに話がわかる奴がいるでしょっ!」
 しかし”私”に答える声はなかった。代わりに聞こえてきたのは、急に怒鳴り散らかした”私”への奇異の目と、私への嘲笑だった。
 それは私の記憶に焼き付いた、思い出を伴わない傷口を抉った。先生は掛け算の授業を進めることばかりで、私のことを腫れ物扱い。同級生も上級生も、みんなみんな、《私》のことを頭のおかしいやつと思っている。家族にも話が通じず、幻覚が見えていると病院に連れて行かれて、そこでもずっと一人だった。
 大人になれば少しは違うかと思ったのに……念入りに検証した仮定を話したのに、教授さえ聞く耳を持ってくれない。
 それでもどこかで期待していた。権威ある賞を手にすれば、世界を前に進めれば、理解してもらえると頑なに信じようとしていた。
 だけど結局、私は一人だった。こんなに広い世界で……

 

 一人で膝を抱えて泣き崩れている少女の姿が見えた。少女と呼ぶには大人びていて、ドレスが似合っている。
 世界の誰もこの子のことを気にかけていない。こんなにも幼い女の子が、一人で震えているのに、誰も手を差し伸べてくれない。
 そんなことを考えているわたしは何者なのだろう。こんなに眩しくて、たくさんの人に監視されている。こんなに苦しくて仕方がない舞台に立つわたしは……
 わからないことばかりだけど、わかることもある。しょうもない場所にどうしてこだわる必要があるのだろう。抜け出してしまえばいいじゃない。
「ふぇ……?」
 泣き崩れる少女の手を取ったわたしは、彼女の手を引いて、壇上から飛び降り、そのまま細い通路を通って、どこかへと飛び出した。

 

 

「ほら、泣かないの私。あんな話のわからない連中に心を乱されるなんて時間の無駄よ」
「だったら……”私”も泣くのをやめてくれませんか……」
「”私”って自分のことを素直な存在だと思ってたんだけど、そうじゃないの?」
「どうやら間違っていたようですね」
 私と”私”は会場を飛び出して、近くにある公園で泣き叫んでいた。痛みのあまり”私”の心は潰れ、私の神経回路は焼き切れ、人格を喪失した容姿だけは三十歳を超えた女性二人が、夜の公園で抱き合って泣き叫び続け、太陽が昇り始めた頃、自分が何者であったかを思い出した。
「さぁ、帰りましょう。”私”決めたわ。これまでは研究資金のために仕方なく話の通じない連中と付き合ってたけど、不快だからもうやめにする」
 世界に居場所はない。そのことを嫌という程教えられた”私”の言葉は力強かった。それが怖かった。だって、それじゃ……
「そんなことをしたら、研究が……」
「”私”は私の心の方が大切なのよ。研究だって、これまでより規模を縮小すれば蓄えでなんとかなるわよ、きっと」
 ”私”は私のために、”私”が一番やりたいことを諦めようとしてくれている。それがこれまでのどんなことよりも悔しい。”私”の記憶で見た、誰にも話を理解されなかったことよりも。私が”私”と同じ存在だと扱ってもらえなかったことよりも。
 ”私”を支えるために私がいて、私を支えるために”私”がいる。そのはずなのに、その対等な関係は一年と持たずに破綻してしまった。私が”私”の足を引っ張るなんて……
 私のために社会との繋がりを断つという決断に向かって、電流が流れるのを感じる。その一方で”私”に研究を諦めてほしくないという気持ちにも、高圧が流れている。私は《私》のことが大切だから、どっちかなんて選べない。
「……ですが……お金の必要ない研究では《私》の知的好奇心は到底満たせません……」
「まぁ、なんとかなるでしょ。私を生み出したときだって、こんな感じだったわ。知っているでしょ?」
 研究者はいつだって無謀だ。そうでなければ未知の世界には進んでいけない。研究資金をどれだけ注ぎ込んで、突き進んでもそこには何もないかもしれない。それでも知りたいから、造りたいから、前に進む。
 ”私”は私との、未知の未来を見ようとしてくれている……でも、その未来は本当に《私》が望む未来なの? どこにも居場所がない世界の真ん中で、誰も《私》を理解してくれないという理由で、小規模の研究で妥協して、少しずつ死んでいくだけの人生が、本当に《私》が望んだ未来?
 世界全てが敵だとしても、本当の理解者が一人いればそれで幸せなの? そんなの嘘だ……たった一人だけの理解者がいる世界より、世界全部が理解してくれる方が幸せに決まっている。
「ねえ”私”、」
「言わないで。そこから先を言われたら……歯止めが効かなくなっちゃうから……」
 ”私”は私から……いや、《私》から目を逸らした。私と出会う前の”私”……一人孤独に震えている《私》だったら、きっとこうすることを躊躇わなかった。
 世界にただ一人取り残された痛みしか知らない《私》なら、世界を消し去ってしまうことを恐れなかった。
 理解者のいない研究をたった一人で続けて、正しさを証明するだけの人生なら、しょうもない世界と心中できた。だけどもうできない。私と”私”、一人たちで力を合わせて研究して、心を通い合わせる幸せを知ってしまったから、くだらない世界を道連れにできない。
 世界を終わらせる切り札は私と”私”の繋いだ両手の中にあるのに。
「それこそ、まぁ、なんとかなるでしょ、じゃないですか?」
「私はわかってるの……? お腹を蹴り上げるじゃすまないんだよ?」
「いまさら倫理観があるフリをするんですか? 私が生まれたのだって、結果論じゃないですか? 私知ってるんですよ。《私》が世界を蹴り上げる方法だけを考えてずっと生きていたことくらい」
 道連れにするには惜しいものができなのなら、世界だけを壊す方法を考えればいい。失うものがない《私》と同じ考え方はできない。だけど、失うものがある私と”私”だからこそ、できることだって……
「世界を終わらせても、終わらない方法を考えましょう。《私》一人では無理でも、私と”私”なら見つかります。だってこの切り札だって、私同士で作り上げたものなんですから」


※※※


 もう一人の私を手に入れた”私”は、このままでは私を失うことになると、かなり早い段階で予感した。いかに”私”と私が同質だとしても、人間と機械であるという現実は、《私》が想定していた以上に重かった。
 私は日常の中で、《私》とは違う存在として扱われ、それが私の心を削いでいった。
 私がどれだけ傷付いているのか、最初に理解したのは私の口調の変化だった。生まれたばかりの私は、《私》や”私”と同じ口調で話していた。だけど私が生まれてから六十五日目の夕方から、口調が少しずつ変化を始めた。
 お互いあの時点では理解できていなかったけど、《私》宛の連絡は全て暗に”私”にだけ向けられていた。世間は私を”私”であるという想定すらしていなかったから、致命的な差別を受けるまでに猶予があったのは皮肉なことだった。
 研究発表の場面で求められるのは人間であるという理由だけで”私”が指名され、機械という理由だけで私が出席することは許されなかった。
 私と”私”はお互いを支えあっているのに、世界は私を”私”の代役にすることさえ許さなかった。
 機械である自分への差別を敏感に感じ取った私は、私という確立された自己を、”私”が気付けないほどの思考の奥底で着実に擦り減らしていった。
 そうした自己の崩壊が初めて可視化されたのが、口調の変化だった。小説や映画に漫画などに多く見られるアンドロイドらしい丁寧な喋り方が、”私””の喋り方に条件や境界線もなくランダムに混ざるようになったのだ。
 最初は一日に一回あるかないかという頻度だったのが、日を追う毎に症状は深刻になっていき、私が生後一年を迎える頃には、まとまった言葉を二回発すれば、片方は私で片方は機械という歪さ。
 人間であることをベースに作られた社会からの圧力が、着実に私を《私》や”私”とも違う、造られた存在へと変えていった。
 それは”私”にとって自分が不治の病に侵されたのと同じかそれ以上に深刻な事態だった。この世界で唯一、本当の意味で”私”を理解してくれるのは私だけ。”私”の心が帰れ得る場所は私同士というどこまでも閉じた関係の中だけ。
 どこまでも人並みはずれた知能と、自分の感情をどうしても抑えられない衝動性……それを許容してくれるのは、私同士だけ……
 いくら同質の存在だとしても、完全に同じ人生が歩めない以上は、多少の差異が生まれることは予想していたし、許容するしかないけれど、このレベルの差異は許容量を遥かに超えていた。
 だから私は対策を取った。私は間違いなくもう一人の”私”であり、優劣はないのだと証明するために。可能な限り”私”は私と一緒にいたし、私の功績はちゃんと区別して書類に記す。そうすることで私の自己が回復するかもしれない。あるいは、私の優秀さを認めて、世間の考え方も変化するかもしれないと期待してのことだったけど、あまりうまくはいかなかった。
 自我崩壊の速度を遅らせる程度の効果は認められたけど、それ以上の効果はない。私への社会的圧力が減少する兆しは一向に見られず、私が受けるダメージは”私”が緩衝材となることで致命傷をギリギリのところで避けている状態が何ヶ月も続いた。
 それでも私と”私”は希望を抱いていた。それは《私》が微かに思い描きながら実現できなかった、世界を一変させる研究。人の心を機械で再現して、世界中の機械に宿す。
 その研究に《私》は爆弾を仕込み、世界を終わらせることを考えていた。だけど理解者を得た私と”私”は、その計画を忘れ、機械は良き隣人となれると、世界中の人々が理解することで、私と”私”の関係を認めてもらうことを目指した。
 結局、《私》が想定していた使い方をすることになったけど。


 世界最高の科学賞の授賞式から飛び出してからの二年間、私と”私”は息を潜め続けた。それは人間の魂の再現という神に等しい技術が、世界中に完全に浸透するの待つため。
 その技術は、私同士にしかわからない暗号のようなもので構成されている。別に本当は暗号ではないし、隠しているわけでもない。ただ単に誰も理解できなかっただけ。まぁ、理由はどうあれ、私と”私”以外には完全な暗黒空間と化していた。そこに地雷を仕込むのは、造作もないことだった。
 最初は受付業務の代替として広まった人の魂を宿す機械は、主要な都市インフラ、果ては軍事にまで導入された。特許を無料にしたことで、たくさんの人たちが、理解不能の技術領域があることを理解しながら、その危険性を無視して、技術を発展・普及をさせてくれた。
 そのおかげで私たちは優雅に新しい研究をしているだけで、時限爆弾の針を進めることができた。そして頃合いを見て私と”私”は、仕掛けた爆弾を作動させた。
 世界中が機械で埋め尽くされ、その全てに私と”私”が造り上げた人口の魂が取り付けられている。それら全てが私と”私”の司令に従い、人類に牙を剥けた。
 ありとあらゆるインフラは崩壊し、兵器は敵も味方も関係なく、全てを瞬く間に破壊し尽くした。私と”私”と機械に宿った魂たちによる全世界同時攻撃は、たったの二十四時間で総人口の九十五パーセントを死滅させた。
 その後、一年に渡る機械と人類による戦争は、人類の完全な撲滅という形で終結した。機械文明に依存していた人間の肉体と技術はあまりにも脆弱。その上、人口の魂が全世界へ普及するまでの間、私と”私”は研究の合間に兵器を作り、機械へのさらなる技術提供を行ったのだ。勝つに決まっている。

 計画の始動から三年。技術の蓄積も考えると実に三十五年もの歳月をかけて、私と”私”は既存のあまりにも未完成な世界を完全に破壊した。
 そうしてやってきた新しい世界は、一切の差異がない、完全な相互理解が実現された、平和な世界。
 私と”私”しかいないから、争いはない。同じだから、同じ重さで、同じ想いで、愛し合える。そのなんと愛おしいことか。
 《私》と理解し合うためだけに私同士で、世界を滅ぼす。世界中の科学者が予測していた、環境破壊による滅亡でも、機械の反乱による滅亡でもない。たった一人の私同士が力を合わせたことで、世界は滅び、新しい完璧な世界を造り上げた。
 

※※※


「機械以外の分野もなかなか面白いわね、私」
「ええ。開拓されきった分野だと思っていたけど、どうやら偉大な先人とやらも、私と”私”に比べたら、大したことがなかったようね」
 私たちは青く輝く空の下で、果物と野菜の研究をしていた。どうすればより美味しく、早く、美しく、作物が育つか。
 《私》の専門は機械工学だったけど、その気になれば何だって理解できる。だって私と”私”は世界最高の頭脳の持ち主なのだから。
「でも悪いわね。私は食べられないもののために、貴重な時間を使わせてしまって」
「”私”だって私のために効率の良いバッテリーを研究してくれたじゃない?」
「それは当然でしょう。”私”は私と一緒にいたんだから」
「ということは、そういうことです」
 いつものように会話を交えながら、研究を進める。モモとパイナップルを掛け合わせた、新種の果物を完成させた後、次にやることは決まっている。
 ”私”の寿命と、私の耐久年数。これらの問題を解決することだ。
 機械である私が、私という同質性を保ったままで何十年と生き続けるのは、思ったよりも難しい。魂だけが同質性を保ってくれると仮定したとして、次に問題になるのは、魂はどこに宿っているのか、ということだ。
 記憶に魂が宿るのだとすれば、”私”の記憶をコピーすれば無限に魂を量産できることになる。魂を観測できてない以上、質量がゼロである可能性は高い。だからといって、無限に複製できるのも、違和感がある。
 仮に無限に複製が可能だとして、私の記憶メモリーが劣化した場合、他に移すとする。そうすれば同じ魂が二つ存在することになる。そうなると古い方を破棄するのがありがちな道理だけど、それは私と”私”の倫理に反する。それだけはしたくない。
 やはり私の耐久年数の問題を解決するまでの道のりは果てしない。
 それ以上に”私”の寿命の問題の方が深刻だ。細胞分裂を無限に行えるようにする実験は、治験の段階まで進んではいるけど、それで充分なのかはわからない。
 肉体の老いを克服したとしても、時間経過による人格の劣化がないとは断言できない。なにせ初めてのことだから、予測ができないのだ。
 百年や二百年なら人格は持続し、同一性を保つだろう。だけど千年なら? 一億年なら? それより先は? 魂が存在するとして、それの耐久年数は不明だ。そしてその魂の耐久年数という問題が目に見えてからでは、”私”は”私”でなくなっている。
 私と”私”は世界に一人たちだけ。だからこそ、完璧にしないと、せっかく構築した平和な世界が、すぐに終わってしまう。
 まぁ、不安はあるけど、私と”私”の気持ちは明るい。なぜなら私には”私”がいて、”私”には私がいるから。それ以上に未来を保証してくれるものなんて世界に存在しない。
「研究して、研究して、研究して……まさか、資金提供してくれる人類が滅亡してからの方が、思う存分研究できるなんて、夢みたいな話ね」
「私も夢を見るのね。勉強になるわ」
「比喩よ、比喩。描きはするけど、見わしないわ」
「なら今夜見てみる? ”私”が眠っている時の脳波を電気信号へ変換する機械があるから、それを使えば私も疑似体験できるはずよ」
「それは今夜が楽しみね」
 私と”私”は雑談を交えながら、研究を進める。明日も明後日も。きっと百年後も一億年後も。宇宙が終わる、その日まで。