二人で一つのディストピア
<あらすじ>
幼馴染の鳴瀬と真帆は別々の高校に進学することになった。
それが原因で疎遠になることを恐れた二人は、位置情報共有アプリを入れあうことで、絆を風化させまいとする。
しかし、その歪な相互監視は次第に二人の関係を次第に狂わせて行く。
<side 鳴瀬>
私と幼馴染の真帆は、互いのスマホに位置情報共有アプリを入れあっている。
きっかけは高校生になる時、違う学校になったから。
それを理由に距離が開いてしまうのが怖くて、お互いのプライベートを共有することにした。
使い始めた頃は、学校終わりに、自然と地図上のお互いの距離が縮まり、待ち合わせなくても、一緒に遊んだりするのに使った。
休日相手が家にいるなら、遊びに行くタイミングが掴みやすくて便利だった。
そうやって健全な使い方をしていた……はずだった。
それが次第に歪み始めた。もとより、こんなストーカーアプリを入れておいて、健全な運用など出来るはずがなかった。
真帆のいる場所がいつでもわかる。それは、とてもわかりやすい形で、安心を与えてくれた。
真帆と一緒にいられない空白の時間。考えるだけでゾッとするそれを、アプリは埋めてくれた。
友達と一緒に遊んでいるんじゃないか。恋人が出来たんじゃないか。
空白の時間は、白いキャンバス。胸が締め付けられるような想像が無限に膨らんでしまう。
真帆が今どこにいるのか。それが分かるだけで、嫌な想像の余地が少しだけど減ってくれる。
ずっと一緒にいた真帆と、高校生になった途端に離れ離れ。
その不安に耐えられなくて、どんどん監視の目が強くなっていく。
休み時間のたびにアプリを眺めて安心していたのが、気付けば授業中にも位置を確認するようになり、食事中、布団の中……真帆の位置を知らないと落ち着かなくなっていく。
そうやって自分の中だけで完結している間はまだ良かった。二人の合意が取れた範囲だから。
位置情報を共有し始めて二ヶ月。真帆のスマホの電池が切れて、突然位置情報がわからなくなった。
授業中だと言うのに、思わず声が漏れた。
真帆と離れて私が辛うじて正気を保てていたのは、完全に空白な時間がなかったからに過ぎない。
いや、それどころか、監視は出来るが絆を育むことの出来ない、位置情報共有アプリに依存していた私の思いは屈折していく一方だった。
引っ込み思案の私に寄り添ってくれる真帆が側にいない不安を、歪な監視で埋め合わせる。
その状態が既に、正気を失っていることに気付くのが遅過ぎた。
突然、真帆との繋がりを完全に断たれた私は、自分で思っていた以上に錯乱した。
高校生になるまでは、相手が今どこにいるかなんて、気にしたことはなかった。。
長期休暇で何日も顔を合わせないことだってあった。その間メールでやり取りをすることもなかった。
そんな私が、たった二ヶ月の監視生活で狂わされた。
気付かない間に、距離が開くことに耐えられない体にされていた。
怖い怖い怖い。今、真帆がどこで何をしているのかわからないのがとてつもなく怖い。
位置がわかっているだけでは、本当の意味で全てを監視出来てなどいない。
そんなこと頭ではわかっている。だけど安心するのも、不安になるのも理屈ではない。
真帆の日常が完全な空白の中にいるのが、不安で不安で仕方がない。
真帆が寄り添ってくれる実感がない。支えになってくれない。それが耐えられない。
呼吸が乱れて授業どころではない。
真帆を探しに行きたい。最後に位置情報が途切れたのは学校だから、そこまで探しに行きたい。
真帆との空白を早く埋めたい。
耐えられなくて、衝動的に教室を飛び出した。
自分でもおかしいと思う。だけど、心臓が締め付けられて、頭がクラクラするような、得体の知れない不安のせいで、自分を抑えられなかった。
駅を何個も乗り継いで、真帆のいる学校の前に辿り着いた。
校内に入ろうとして、警備員に止められるが、強行突破して、真帆がいるはずの教室に突入する。
そこに真帆の姿はなかった。
絶望が胸を覆い尽くす。真帆が今どこにいるのかが全くわからない。
クラスメートに問い詰めても、さっき早退したと返してくるだけ。
早退したのなら家に帰ってるはず。迷うことなく、私は真帆の家に向かった。
しかし、家にも真帆はいなかった。こうなったらもう探しようがない。
場合によっては、警察に捜索願を出さないと……
と、とにかく、夜になるまではここで待とう。
「成瀬? ……こんなところで何してるの?」
何時間待ったかわからないが、午前中にここに来て、日が落ちていることから最低でも七時間は経っているか。
その間飲まず食わずだから、ちょっと足元がふらついていた。
「わざわざ家まで来るってことは、なにか重大な用事があるんだよね」
全てが乱れた私と違って、至って平静な真帆を見ていると、なぜかイライラしてくる。
私がこんなに真帆を必要としているのに、真帆は私との繋がりが断たれても何も感じていない。
そのすれ違いが我慢出来ない。アプリを入れようと言って来たのは、真帆の方からなのに……
「……平気そうな顔しないで。イライラする……」
「どうしたの成瀬? そんな追い詰められたように……」
「スマホの電池切れてるでしょ!」
「えっ……あっ、本当だ。全然気付かなかった。それがどうかしたの」
「真帆の位置情報が消えたのが不安だったの」
「ちょっとの間だけじゃん。もしかして、それで家まで来たの?」
「そうだけど」
「……ちょっと前から思ってたけど、最近の成瀬、気持ち悪いよ」
この反応を見て理解した。真帆はアプリを入れた時点で満足してしまう人間なんだと。
私のように、全てを監視していないと、気が動転してしまうような、異常者ではないのだと。
私の位置情報を日常的に確認し、安心を得ていないから、スマホの電池が切れても、丸一日気付くことはないんだ。
いくら苛立っても、声を荒げても、この私の不安が伝わることはないのだろう。
だったらこうするしかない。
「私も最初、こんなアプリ入れようって誘ってきた真帆のこと、気持ち悪いって思ったよ。はい、これ」
真帆の罵倒も意に介さず、自然にカバンに入ったモバイルバッテリーを渡す。
「なにこれ」
「充電切らさないようにしてね」
「……アプリの設定変えれば、位置情報見られないように出来るんだけど」
「そんなことしたら許さないから」
真帆に釘を刺してから、家路につく。
十分近く歩いて、駅に着いた辺りで、イヤホンをつけて、アプリを開く。
『今日の鳴瀬……本当に気持ち悪かったな』
イヤホンから聞こえて来る真帆の声。さっきあげたモバイルバッテリーには、盗聴器が仕込んである。
その音声をスマホで聞けるんだから本当に便利。
使うつもりはなかったけど、真帆がああいう態度を取るなら仕方がない。
モバイルバッテリーと盗聴器の電池は別々で、盗聴器の方は充電なしでも二週間持つ。その上充電すれば、モバイルバッテリーと盗聴器の両方ともが充電される。
ちょっとお高かったけど、良い買い物だった。
『距離置かないとまずいかな。でもそれしたら何されるかわからないし……面倒だなぁ』
これで位置だけじゃなくて、声まで知れる安心に心が満たされて行く。
もっともっと真帆のことを監視したい。
離れ離れになってしまった分を、埋め合わせしないと。
位置情報共有アプリから始まった真帆を監視する生活は、悪化の一途をたどった。
盗聴器を仕込んだ機械を渡したのをきっかけに、自分の中にあった良心という箍が完全に壊れた。
本来の目的……真帆を近くに感じるという目的の為の監視が、監視の為に真帆の近くに行くようになった。
真帆の家に盗聴器と監視カメラを付けに行くつ為に遊びに行く。
真帆のプライベートで使うカバンに盗聴器を仕込む為に、遊園地に遊びに行った。
手段と目的が入れ替わっていることには気付いたが、もう止められなかった。
中学生までの私が知っていた真帆は、私といる時の真帆だけ。
私が介在していない時の真帆は、伝聞でしか知らなかった。
監視していると、真帆の知らなかった部分が私の物になって行く。
それがたまらなくて、どんどん真帆を監視することに、のめり込む。
位置情報だけではわからなかった真帆の空白が、少しずつ埋まっていく。
不安の色で塗り放題だった白いキャンバスの上が、少しずつ埋まっていく。
時には確たる安心で。あるいは、確たる不安として。
会話と位置情報から恋人がいないのは明らか。
だけど仲の良い友達がいて、その子たちと遊んでいるのがわかる。
何が嫌かって、私と行ったことのないような場所にも真帆が遊びに行っていること。
真帆がボーリングなんて好きじゃないの知ってるし、本当の意味で楽しんでいないのは声でわかるけど。だからといって納得は出来ない。
真帆とボーリングをした思い出を誰かが独り占めしてるなんてズルい。
私と遊びに行くのを断って、他の人と楽しそうにしているのを観て、聴いているとどうしようもない気持ちが溢れて来る。
これ以上真帆が他の人といるのは我慢出来ない。
いてもたってもいられなくなって、真帆の携帯に電話をかける。
「真帆……今他の人といるよね。早く別れてくれないかな」
「どうしてそんなことまで鳴瀬に干渉されないといけないの?」
真帆の反応は私の期待とは真逆だった。
確かにそうだね、と答えて全てを捨てて欲しかった。
それなのに、自分のことに干渉しないでと言い放った。
「……確かにそれもそうだね。私が間違ってたよ。ごめん」
「いい加減にしないと、そろそろ本気で怒るから」
いい加減にしないと本気で怒るのはこっちの方だ。というか、もう本気で怒った。
もう容赦しないから。
真帆が今遊んでいる人が誰かなんてわかってるんだよ。誰にノートを代わりに書いてもらうとか、そんなことも。
最低限の関係なら我慢してあげたのに……真帆が悪いんだからね。
次の日から、真帆と遊んでいた人たちに連絡をするようにした。
私の好きな人に手を出さないで。真帆と遊ぶ時には私の許可を取るように。そう伝えた。
気味の悪い真帆のストーカーから直々の忠告。
この程度でも充分真帆から人が離れていくと踏んだ。そして、その通りになった。
確かに真帆は可愛いし、社交的だけど、仲良くしたらストーカーが攻撃してくるかも、となったら人はどんどん離れて行った。
真帆が教室で孤立し始めたのが、盗聴器を通して手に取るようにわかる。
真帆を取り囲む声が日に日に小さくなる。
そのか細い声の主にも、電話をかけて真帆に触れさせまいとする。
一ヶ月もしないうちに、盗聴器からは真帆のすすり泣くような声だけが聞こえるようになった。
「鳴瀬……話があるんだけど」
真帆が私以外を失い、そのことに満足していたある日のこと、学校から帰ると家の前に憎悪に支配された真帆がいた。
まぁ、そこにいることはわかってはいた。だけど、どうしてこんなに怒っているのか。全然わからない。
「鳴瀬だよね。わたしの周りの人に、嫌がらせしてるの」
「そうだよ。だって真帆を独り占めしたかったんだもん。別に良いでしょ。私がいるんだから」
「……」
当たり前のことを言ったつもりだったのに、真帆の反応は想像と違った。
化け物を見るような、冷ややかな視線。それは、最初位置情報共有アプリを入れようと提案された時に、私がしたのと似ていた。
「……いい加減にして。やめなかったら怒るって言ったよね」
「言われた通り真帆には何もしてないでしょ」
「……話が通じないってことはわかったよ。それで、やめるつもりはないんでしょ」
「したくてしてるわけじゃないんだけどな」
「……」
真帆は諦めたように俯いて、観念したように呟いた。
「携帯出して。そこにある連絡先、わたしが選別する。やってるならSNSとかも全部見せて。気に入らない相手はブロックするから。鳴瀬だけわたしを支配するのは、不公平でしょ。もう取り返しつかないことしたんだから、釣り合い取ってもらうよ」
真帆の提案は願っても無い物だった。お互いに相手の全てを監視をし合う。気に入らなかったら、捨てさせる。
それは自分の自由意志を差し出しあうことで、互いの幸福を保証する最高の関係。
今の私はアプリを入れた時とは違って、一般的には最低と呼ばれる関係を、最高の関係だと思うようになってしまった。
真帆も取り返しのつかない場所まで堕ちてきてくれた。それが、ただただ嬉しい。
「今日帰ったら盗聴器買って、鳴瀬に付けるから。あと監視カメラも部屋につけてもらうよ」
嬉しい。こっそりと真帆の全部を知るのも悪くなかったけど、合意の上で互いの全てを監視しあうのも、この上なく素晴らしいことに思えた。
「うん。それじゃ、私も真帆の家に……」
「鳴瀬はそんなことしなくてもいいでしょ。別のことにお金使いなよ」
立ち去る間際に放った真帆の言葉は、全てを見通しているような明瞭さがあった。
盗聴器を仕込んだことも、監視カメラを設置していたことにも気付いたからこそ、家までやってきたのだろうか。
「意外とお金かかるから。こういうのって、本当に限界ないんだから」
真帆が言っていることの意味が、その時の私にはよくわからなかった。
<side 真帆>
『ここの問題難しいな』
過去問を解く側で、イヤホンから流れる鳴瀬の声に耳を傾ける。
『くじけちゃダメ! 絶対、真帆と同じ高校に行くんだから』
わたしと比べて真帆の学力が根本的に劣っているわけではない。
それでも、本格的に受験勉強を始めたのが十月では、流石に追いつけないだろう。
もちろん追いついてもらっては困るが、絶望的過ぎるのは鳴瀬とのこれからを考えると良くない。だからこんな中途半端な時期に、自分の志望校を伝えたのだ。
『うー……こんなペースじゃ間に合わないよ……』
鳴瀬が弱音を吐くのも無理はない。鳴瀬がギリギリ間に合わないように計算して、伝えたんだから、そりゃ苦しいだろう。
わたしと一緒にいるために、わたしの掌の上で踊る鳴瀬を観察していると、どうしても興奮してしまう。
とても人には見せられない表情をしながら、鉛筆を動かす。数学の大問も、七割程度の確率で最後まで解けるようになってきた。
本番では鳴瀬ボイスブーストがかからないから不安ではあるけど、それは同じ会場になる鳴瀬の息遣いで代用出来るようにこれから調整しよう。
さて。とりあえず自分の分は終わったから、明日、鳴瀬に教える問題を解こう。
鳴瀬に勉強を教えることで仲を深めながら、自分の学力も上がる。なんて効率の良い勉強法だろうか。
『足を引っ張るのは嫌だけど、明日はここを聞こう』
そこで詰まると思ってたから、もう準備出来てるよ。
でも、いざそこを明日教えるとすると、詰め込みすぎになっちゃうから、準備しないほうがいいね。
だったら今日の勉強はおしまいにして、鳴瀬を観察することにしよう。
成瀬の勉強机に仕込んだカメラの映像を、スマホと連動させて、ベットに寝転びながらそれを眺める。
『これが解けてるってことは、真帆は凄い頑張ったんだよね。私も頑張らないと』
自分ではそういうけど、鳴瀬が頑張ってるのはわたしが一番よく知ってるよ。
ずっとこうして見てたからね。私は鳴瀬と、より仲良くなるために、上の学校に行きたかったから、隠れてコツコツ勉強してただけで、集中力は鳴瀬の方が上だし。
わたしが上を目指してるってもっと早く知ってたら、真帆がわたしといる為だけに、志望校を下げてた可能性もある。それはそれで嬉しいけど、ちょっと健全過ぎて、満足出来ないよね。
わたしに協力してもらって、頑張って努力して、それでもギリギリ届かなくて、離れ離れになる。それくらい辛い思いをしないと鳴瀬は狂わない。
それにしても、わたしと会う時は家の中でもちゃんとしてるのに、一人の時はちょっとだらしない感じなの、最高過ぎる。
わたしの前では可愛く在ろうとしてるのに、一人ならバレてないと思って油断してる。そういうところが可愛い。
でもそれが不安でもある。こんな風に日常を観察されてても気付かないってことの証明なんだから。
ちゃんとわたしが見守っててあげないと、危なっかしい。
『あー! もう疲れた! 寝る!』
そう行って不貞寝し始める鳴瀬の可愛さに悶えながら、わたしも寝ることにした。
計画通り鳴瀬はわたしの第一志望には合格しなかった。わたしは合格した。
鳴瀬をより悔しがらせたのは、わたしの第二志望には通っていたことだろう。
我ながら本当に完璧な計画だった。
わたしの立てた勉強計画に従って、第二志望に合格。さぞ悔しかろう。
でもこの結果を少し残念に思う自分がいるのも事実だ。健全な友達以上、恋人未満の関係で高校生活を送るのも、はっきり言って悪くない。
飽きたら告白して恋人になれば良いし、鳴瀬観察も続けれていればとても楽しい高校生活。そのまま大学生になって、社会人になって、一緒に住んで幸せな生活。うん、良い。
でも、まぁ、もうちょっと踏み込んだ関係がわたし好み。お互いがお互いを観察し合うような、退廃的な奴が。
「明日から真帆と離れ離れなんて嫌だよ……」
卒業式も終わって、校舎の裏で鳴瀬がわたしに泣きついてくる。
健全にわたしが好きで、健全に頼ってくれる。なんとプラトニックな関係だろう。さながら物語でも見ているかのようだ。
でもプラトニックでも、わたしはもう少し暗黒面に両足が浸かってるような感じの方が好み。わたし自身がそうだから。
「わたしも鳴瀬と離れるの嫌だよ」
「もうちょっと頑張ってたら、同じ高校に行けたかもしれないのに……ごめんね」
「成瀬は充分頑張ったよ。それはわたしが保証するから」
涙を拭う鳴瀬を本心から励まし、計画を第二段階に移すとしよう。
「それでさ。ずっと仲良しでいるための方法を考えたんだけど……このアプリ入れ合わない?」
鳴瀬に見せたのは、以前から目をつけていた位置情報共有アプリ。わたしに言わせれば、こんな中途半端な観察アプリで満足出来るなら、健全な関係でいた方がお互いの為だと思うのだが……
こんな煮え切らない相互観察を続けていたら、拗れるのは目に見えている。まぁ、今回はその中途半端な性質を利用させてもらうのだが。
「うっ……いくらなんでもこういうのは……」
「嫌になったらやめたらいいんだよ。学校終わる度に待ち合わせの連絡し合うのも面倒でしょ?」
「そうだけど……」
「大丈夫だよ。同じ学校じゃなくなっても仲良しでいられる。だけど安心感は大事だよ。わたしの不安を消すと思って。ね?」
自分で言っててなんと白々しいのだろうと思う。今までずっとプライベートを観察していたのに、そこには触れずに、対等に観察し合おうなどと宣うのは。
「……うん、そうだね。そうしたらずっと二人でいられるもんね。そうしよう」
渋々といった様子で、鳴瀬はアプリを入れて、私とフレンドになる。
これでどちらかが相手をブロックするなり、通知をオフにしない限りは、自分のプライバシーが相手に筒抜けのまま。
まぁ、そんなことしなくてもわたしは鳴瀬のことを観察出来るから、有り難みはあんまりない。
「これで離れ離れになっても安心だね」
わたしが言ったことを、鳴瀬は納得していないのが見て取れる。
こんなことしたって安心出来ないって言いたそうに。
まぁその通りだよ。こんな程度じゃムリ安心なんて到底出来ない。そんなこと、わたしが一番よく知ってる。
下手に観察出来る分だけ、おかしくなる。
鳴瀬に素質があるのなら、これでわたしと同じところまで堕ちて来てくれるはず。
それを首を長くして待つことにしよう。
最初の真帆は位置情報をさして気にかけてもいなかった。せいぜい待ち合わせに使うくらい。
それが少しずつ、ほんの少しずつだけど、か細いプライバシーの観察に依存していった。
別離なんて大半の人は耐えられるように出来ている。
わたしはムリだけど、本来の真帆なら出来てしまう。
だけど、その別離が中途半端だと、いつまでたっても割り切れない。それが歪であればあるほど、狂気に走って行かざるを得ない。
同じ学校の友達同士であれば、位置情報くらいなら壊れずに済むのかもしれない。
だけど、真帆はどこかわたしに依存していて、自分の努力不足で距離が離れたと思っていて。そこまで条件を整えてやれば、常人でも充分狂い得る。
用事があるから位置情報を確認していたのが、特に意味もなく気になって調べた。
そのたった一度をきっかけに、真帆は度を越した観察生活へと転落した。
高校生になって二ヶ月が過ぎる頃には、真帆は完全に壊れた。
四六時中わたしの位置情報を確認していないと、不安を感じるようになっていた。
食事中も、登校中も、授業中も、寝る直前まで、鳴瀬はわたしの位置情報を確認し続けていた。
その表情は楽しいことをしているというより、強迫観念めいた何かに突き動かされている感じだった。
それを見て、そろそろ堕とせると確信したわたしは、計画を実行に移すことにした。
前触れもなく今の鳴瀬がわたしを見失ったら、何が何でもわたしを見失わないような策を弄してくれる。そう考えて、スマホの充電をし忘れたように見せかけて、位置情報を絶った。
鳴瀬の制服に仕込んだ盗聴器から聞こえてくる息遣いから、狼狽える様子が手に取るようにわかる。
我慢出来なくて教室から飛び出し、わたしのいる学校に向かい始めたのは位置情報で簡単に分かったから、早退したことにして、学校を後にする。
教室に突入してきた鳴瀬を、向かいにあるビルから観察する。
周りにいるクラスメートにわたしの行方を問いただしている鳴瀬の瞳は、狂気に満ちている。
それに満足を覚えながら、おぼつかない足取りでわたしの家に向かおうとする鳴瀬を観察するのことにした。
わたしの家に辿り着いた真帆は、そこにもいないことを知って、その場に崩れ落ちた。
わたしの現在に関する情報をすべて失った鳴瀬は、正気を失ったまま、全身をわずかに震わせる事しか出来ない。
六月になって気温も上がってきたにも関わらず、何時間もカバンの中に入った水筒に口をつけることさえなく、ずっと家の前でわたしの帰りを待ち続ける。
それは一言、狂気としか形容のしようがなかった。
同じところまで堕ちてきてくれたことを充分に確認し終えて、満を持して鳴瀬の前に姿を現すことにした。
「成瀬……こんなところで何してるの? わざわざ家まで来るってことは、なにか重大な用事があるんだよね」
何事もなかったかのように、ただ家に帰ったら、友達が待っていた風を装う。
ほとんど極限まで追い詰められた鳴瀬は、わたしの態度を見て露骨に苛立っている。
「……平気そうな顔しないで。イライラする……」
わたしの位置がわからなくなっただけで、正気を失って、手がかりがないとわかるや、植物か岩になったかのように活動を停止する。その一部始終を全て見て、感じていた。
そりゃ、こんな態度取られたら嫌だよね。
「どうしたの成瀬? そんな追い詰められたように……」
でも、そんなの関係ない。もっと、もっと追い詰められて欲しい。
「スマホの電池切れてるでしょ!」
「えっ……あっ、本当だ。全然気付かなかった。それがどうかしたの」
「真帆の位置情報が消えたのが不安だったの」
「ちょっとの間だけじゃん。もしかして、それで家まで来たの?」
「そうだけど」
「……ちょっと前から思ってたけど、最近の成瀬、気持ち悪いよ」
心にもないことを言うことに抵抗がある。最近の鳴瀬は素敵だ。どんどん魅力的になっている。
「私も最初、こんなアプリ入れようって誘ってきた真帆のこと、気持ち悪いって思ったよ。はい、これ」
鳴瀬が唐突にモバイルバッテリーを押し付けて来る。一週間前に通販で購入していた盗聴器付きの物だ。
「なにこれ」
「充電切らさないようにしてね」
「……アプリの設定変えれば、位置情報見られないように出来るんだけど」
「そんなことしたら許さないから」
暗く澱んで瞳で睨みつけて踵を返す鳴瀬の背中を眺めながら、早速もらった盗聴器兼モバイルバッテリーでスマホを充電して、アプリを開く。
なんだかんだで下手な発信機を付けるより、このアプリの方が精度が高いし、手軽に確認出来るから便利だ。
あと数分もすれば駅に着くだろう。さて、せっかく盗聴器を上手くわたしに持たせたのだから、成果を与えてあげるとしよう。
どんな内容だと、もっと狂ってくれるだろうか。
きっと鳴瀬の知らないわたしを知れたら喜ぶ。それをこの盗聴器を通して鳴瀬に発信してあげよう。
そしたら、もっと酷くなって行くから。
ある日、鳴瀬が家に遊びに来た。わたしが飲み物を取りに自室を出て、部屋に設置した監視カメラの映像を確認する。
そこに映し出された映像には、机の裏やベッドの脇に監視カメラを仕込む鳴瀬の姿だった。
素人なりに調べたのがよくわかる、ありがちだけど目につきにくい場所にカメラを設置している。微笑ましい。
監視カメラを隠れて設置する自分が、今まさしく観察されているなんて夢にも思っていないのが可愛い。
時間をかけて飲み物とお菓子を用意して、鳴瀬がちょこんと座布団の上に腰を下ろしたのを確認してから、部屋に戻った。
遊園地に遊びに行った時、ジェットコースターに二人で乗った。
昔からこういうのが苦手だった鳴瀬は自然と私に抱きついてくる。その瞬間、鳴瀬か、友達のふりをしている人と遊びに行く時にだけ使うカバンに何かを仕込んで来た。
まぁ盗聴器だろう。何かの拍子に壊してしまわないように気をつけないと。
いや、その時はその時で、鳴瀬の新たな一面が観れるかも知れない。
だけど今は、鳴瀬の思うがままにわたしを観察させてあげよう。
鳴瀬はあの手この手でわたしの全てを観察しようと、なりふり構わなくなって行く。
その症状が進行するのに比例して、真帆から正気と余裕が失われる。
観察するだけで済んでいたのが、支配に変化するのにそう時間はかからなかった。
わたしの持つ、上っ面だけのの交友関係に口を挟んでくれるようになったのだ。
それが聞き入れられないとなると、わたしにではなく、わたしを取り囲む人に対して嫌がらせを始めた。
嬉しかった。ここまで堕ちてしまえば、わたしの望みを聞き入れてくれるはずだ。
これでようやく、成瀬がわたしの物になる。
ずっと昔から鳴瀬には、誰も近寄って欲しくなかった。ずっと独り占めしたかった。でも、そうはならなかった。
人と話すのが苦手な鳴瀬に話しかける不届きな人間はいつどこにでもいた。
それが不愉快でたまらなかった。鳴瀬の魅力に真っ先に気付いて、話しかけて、学校生活を支えてあげたのはわたしなのに。
ちょっと社交的になった鳴瀬に後乗りしてくる人を許せるはずがない。そんなしょうもない人に、愛想を振りまく鳴瀬の方も、許せない。
わたしは鳴瀬の方だけ見ていたい。だから、鳴瀬はわたしの方だけ見ていればいい。
さも不機嫌そうな面持ちで、鳴瀬が家に帰ってくるのを待ち伏せする。
ここまで思い通りの鳴瀬になってくれたことが嬉しくて、嬉しくて、つい口角が上がってしまいそうになるのを、頑張って抑える。
「鳴瀬……話があるんだけど」
わたしがここにいることを知っている鳴瀬は特に驚く表情も見せない。イヤホンを外して、まっすぐわたしを見据える。
「鳴瀬だよね。わたしの周りの人に、嫌がらせしてるの」
されて嬉しいことを、さも嫌なことであるように語るのは骨が折れる。今更、こんな風に取り繕う必要はないのかも知れないけど、もっともっと壊すために、芝居を打とう。
「そうだよ。だって真帆を独り占めしたかったんだもん。別に良いでしょ。私がいるんだもんね」
「……」
ダメだ……嬉しくて、湧き上がってくる歓びを隠しきれなくなりそう。
「……いい加減にして。やめなかったら怒るって言ったよね」
「言われた通り真帆には何もしてないでしょ」
わかるよ……わかる。鳴瀬の気持ちが。わたしもそうたから。相手のことが欲しくて欲しくてたまらなくて、相手のことが全然見えなくなる。
自分にとって都合の良い存在になって欲しくて、何もかも壊れて行く。
鳴瀬はもう、わたし以外とは話が通じないだろうし、わかってももらえない。
「……もう話が通じないってことはわかったよ。それで、やめるつもりはないんでしょ」
「したくてしてるわけじゃないんだけどな」
「携帯出して。そこにある連絡先、わたしが選別する。やってるSNSも全部見せて。気に入らない相手はブロックするから。鳴瀬だけわたしを支配するのは、不公平でしょ。もう取り返しつかないんだから、釣り合い取ってもらうから」
それを聞いて鳴瀬が嬉しそうにする。相手に狂い過ぎて孤立している一人と一人が合わさって、相互監視をし合う終末的な関係。
今この瞬間、そうなれたのだと思って、嬉しそうにしている。
でも本当のところは違う。
「うん。それじゃ、私も真帆の家に……」
「鳴瀬はそんなことしなくてもいいでしょ。別のことにお金使いなよ」
これはもう、ただの儀式。お互いに相手の了承を得るという意味しか持っていない。
これからすることで、お互いが相手に見せている情報量に変化はない。
相手のことを縛り付け合う。どこまでも際限なく。
この先二人の身に起こるのは、相手の何もかもが気に入らなくて、鎖の種類が無意味に増えて、締め付けが際限なく強くなって、何もかもめちゃくちゃになる。
楽しみだね。
<エピローグ>
私たちの人生が破綻するのに時間はそれほどかからなかった。
二人で合意を取って監視をし合う関係で妥協し続けるなんて、無理な話だった。
真帆が別の学校で勉強して、誰かに見られて、私の知らない真帆が秒毎に増えていく。
盗聴器を付けて、学校の机にカメラを仕込んだとしても、真帆の側にいるのには到底敵わない。
それは真帆も同じ気持ちで、同じくらいの時期に、このまま別の高校に通いながら理性を保つのは無理だと結論付けた。
高校二年生になるのを待たずに、私たちは自主退学した。
そのまま人生を閉ざすのは嫌だから、とりあえずしがらみの少ない高卒認定試験を目指した。そこから大学生になって、同じ大学に通いはじめた。
この人生設計は途中まで上手く行っていた。少なくとも、同じ大学には行くことが出来たのだから。
誤算だったのは、別の高校になった時点で、全てが手遅れになっていたこと。
ただお互いの位置情報をさらけ出し合うなんて、大したことのないはずの真帆の提案に乗って、行き過ぎた私のために全てが狂ってしまった。
今の私たちは、必修単位を取得することが難しかった。
必修授業は抽選でどのクラスになるか決まるものがある。真帆と違うクラスになることも少なくない。
それが今の私たちには耐えられなかった。相手の存在が視界から外れてしまうだけで、気が動転してしまうのだから。
それはもう、位置情報なんてものではどうにもならず、盗聴器とか監視カメラを用いても、症状が治まることはない。
同じ部屋にいる時に、視界から消えるだけでそうなるのだから、広い大学の中で離れ離れなんて、とても耐えられない。
よしんば同じクラスになれたとして、指定席が隣になるとは限らない。お互いに相手の方を向くことで誤魔化しながら辛うじて授業を受ける。
明らかにどうしようもなくなってきている。ちょっと相手のことを監視しているだけで満足出来ていた、高校時代が懐かしい。
真帆と一緒にいるだけで満たされていた中学生までが懐かしい。
もうあんな風に、健全に生きていた日々には戻れない。
ほんの少し歪な関係を築いただけで、尋常ではないほどに真帆を求めてしまうようになってしまった。
もう自分ではこの衝動を止められなかった。
それでも強く思う。元のまともな人生に戻れれば、と。
きっかけは真帆だけど、先に一線を超えて真帆の友達に嫌がらせをして、真帆が狂わざるを得なくさせたのは私だ。
私のせいで、自分の人生だけじゃなくて、真帆の人生までダメにしてしまった。
その責任をどう果たせば良いのかわからない。
せめて真帆が望めば、まともな人生に戻れる道を残そうとして大学を選んだつもりが、結局上手く行かない。
取り返しのつかないことをしでかして……真帆が不意に目の前からいなくなると、頭が冷静になって罪悪感で狂いそうになる。
今が幸せな日々の連続なのか、辛いだけの日常の連続なのか、もうわからなかった。
膝の上で眠る鳴瀬の髪を撫でながら、最高の結末を迎えられた幸せを噛みしめる。
二人の大学生活、もとい同棲生活は、この1Kの小さな空間で完結している。
お金に余裕はあるから、もっと広い部屋にも出来た。だけど、広いとその分だけ距離が開いてしまう。
二人で選んだのは、十畳にも満たないこの箱庭。
お互いが相手の近くにいないと、泣き喚いてしまう、末期患者二人の退廃的な生活。
強いて不満があるとすれば、鳴瀬がまだ普通の人生を諦めてくれていないことだ。
せめて通信制大学にすれば良いのに、普通の大学を選んだり、無理だと知りながら、わたしといられない授業を受けに行こうとしたり。
そんなことをしても自分が苦しむだけなのに。それになにより、わたしが苦しい。
鳴瀬はここまで狂ってくれたのに、まだまだ満足出来ない。
結局先に壊れていたわたしの方が、どうしても先を行ってしまう。根本がまともなのも相まって、鳴瀬は極限まで全てを捨て去ってはくれない。
「うん……真帆、どうしたの? 深刻そうな顔をして」
それが不満でたまらない。自分の全てを捨てて、わたしの全てを奪って欲しいのに、それをギリギリで躊躇うもどかしさ。
一線なんてとっくに超えているのに、自分の中にある”まともの”の境界を超えてくれない。人生の取り返しがつく範疇でしか、わたしに狂ってくれない。
わたしは自分の人生なんて、とっくの昔にどうでもよくて。鳴瀬の全てを手にするために、全部捧げているのに。
大好きで大好きでたまらない、それでもどこかお利口なままの壊れた鳴瀬。
本当はもっと壊れて欲しい。
「明日の学校のこと? 離れ離れになる授業が多いから休む?」
鳴瀬の正気を何が繋ぎ止めているのかがわからない。それを壊したくて仕方がない。
この状態で何ヶ月か過ごしてみてわかった。やっぱり鳴瀬にはとことんまで壊れて欲しい。原型がなんだったかわからなくなるくらいまで。
だから、鳴瀬の正気を繋ぐ鎖を今から見つけ出して、砕いてあげる。
「ずっと思ってたんだけど、大学行く必要なくないかな」
「いきなりどうしたの真帆……私よりよっぽど通えてるのに」
「だって無駄じゃん。この調子じゃ、就職なんて出来ないよ。出来たとして続けられないよ。だったら大学やめて、浮いたお金で、ずっとこの部屋の中でだらだらしてようよ」
わたしの提案を聞いて、鳴瀬は苦しそうに顔を歪めた。
「……それはダメだよ。私のせいで真帆の人生狂わせちゃったんだから。まだ真帆はまともに戻れるんだから、私のことなんか捨てでも大学に通って普通に戻らないと」
……それを聞いて、なんとなくわかってきた。鳴瀬がどうして狂い切ってくれないのかが。
「鳴瀬が思ってるより、わたしはずっと昔から壊れてるよ。普通に見えるように擬態しているだけで」
「そんなことないよ。真帆はアプリを入れても一線を超えなかったのに、私が耐えられなくなって……私が全部めちゃくちゃにしちゃった。ごめんね……本当にごめんね」
鳴瀬は今だに、馬鹿正直に全部を勘違いしていた。どこかで察していてもおかしくなかったのに、そんなこともなく、今の終末的な共依存が自分のせいだと思い込んでいる。
そんなことないのに。全部私の筋書き通りなだけなのに。
鳴瀬がわかっていないだけで、このまま大学に通えるか、全てが狂ったままなのか。その選択肢はわたしにある。
それが嬉しかった。鳴瀬の人生を掌握出来ているという実感が、心を満たしてくれる。鳴瀬を支配しているという実感だけが、わたしに生きる意味を与えてくれる。
「鳴瀬はさ、自分のせいでこうなったと思ってるの?」
「実際そうだもん。私が真帆の友達に嫉妬しなければこんなことにはならずに済んだのに」
「……仮にだけどさ、わたしのせいでこうなってたとしたら、鳴瀬はどうする? 一緒に死ぬまでこの部屋で、だらだら一緒に過ごしてしてくれる?」
わたしの質問に、すぐには答えてくれない。仮定に仮定を重ねた問いかけに、長く想像を膨らませて、仮想の世界で自分がどう振る舞うかを考えてくれている。
「……昔の私がどう思うかはわからないけど……多分反対のことを思うんだろうけど、嬉しいんじゃないかな。ずっと真帆のことは好きだったから、先に私に狂ってくれていたんだとしたら」
鳴瀬が苦心して出してくれた答えに、思わず笑ってしまった。わたしはちゃんと、最適解を選べていたということだ。
中学までの鳴瀬ではわたしを受け止めてはくれなかった。時間をかけて少しずつ少しずつ、壊して初めて狂気が釣り合った。
最悪を煮詰めた過去の遺産も、今の鳴瀬であればきっと最高のプロポーズとして受け取ってくれるだろう。
「ねえ、実は鳴瀬に隠してたことがあるんだ。ちょっと出かけない? それを見せてあげる」
はてなマークを浮かべる鳴瀬の手を引いて、外へ飛び出す。
向かうのは鳴瀬を隠し撮りした写真や映像、それに音声を隠したお母さんの別荘。
そこでわたしたちの未来は閉じる。最高の形で。幸福な幕引きで。
電車を乗り継いで連れて行ってくれたのは、小学生の頃に一度だけお邪魔したことのある、真帆のお母さんが所有する別荘だった。
「わたしの部屋にある物を見て欲しいの。今の鳴瀬ならきっと喜んでくれるから」
そう言って真帆は、別荘のリビングにある吹き抜けの階段を登って、二階の部屋に案内してくれる。
部屋の中は整理されていて、埃もなく、定期的に清掃されている様子だった。
そんな空間の真ん中にとりわけ異彩を放つ物体が置かれていた。
ただ一つ埃をかぶった、胴体ほどの大きさをした金庫が、部屋の真ん中に鎮座していた。
「これには触れないでって言っておいたの。ダイヤル式だから、相当忍耐強くないと中はわたし以外には見られないけど、どうしても触れられたくなくて」
手際よく五つあるダイヤルを規定通り回している真帆を眺めながら、中身はなんなのかを考える。
ここまで厳重に保管されている、私が喜びそうな物……正直全く見当がつかない。
将来の不安がなくなるような大金や貴金属が入っていたとしても、私が抱えるこの罪悪感は今更消えてはくれない。
もう全て手遅れなのだから。
そんなことを考えていると、真帆が金庫を解錠して、扉を開いた。
「これがわたしの一番の秘密。隠し事をしないって約束した鳴瀬に、”人生の最期“まで隠してた秘密だよ」
嬉しそうに、でも湧き上がる不安を必死に押し留めているのがわかる、苦しそうな表情で……真帆は一冊のアルバムを手渡してくれた。
タイトルも書かれていない、シンプルなアルバム。傷ひとつない綺麗なアルバム。
中を見るように真帆が無言で背中を押してくる。そこに強い意志を感じた私は、勇気を振り絞ってアルバムを開く。
そこには、私の写真が入っていた。そこには撮られた覚えのない、私の写真だけが山のように収められていた。
「……こういう時って……怒るのが正しいんだろうけど、ありがとう真帆」
自分でも不思議だった。こんなことされていて、いやなはずで、いやだと思わないといけないのに。
そんな気持ちは全く湧いてこなかった。
小学生の頃の私。中学生の頃の写真。真帆が何をしていたか、今の私はすぐに理解した。その時の気持ちも理解出来た。
ただそうなったのが、私より早くて、一人じゃ寂しかったから私も引き摺り込んだだけのこと。
子供の頃から何も夢なんてなくて、友達も少なくて、自分に閉じこもりがちな私だったから、現状に不満はなかった。
壊れると称するほどの価値、私の人生にはないと自負していたから。
成績も良くて、友達も多い真帆の人生を壊してしまったことだけが、後悔なのだから。
「……こんなの知っちゃったら、もう躊躇う理由ないんだけど、真帆はそれでいいの?」
「鳴瀬はまだまともだね。わたしはそんなのとっくに躊躇ってないよ。ブレーキないのくらい、これ見たらわかるでしょ」
真帆の後ろにある金庫にはさっき見せてもらったアルバムが十数冊積まれていて、ディスクが何十枚と重ねられている。
「わたしはずっと昔から、我慢してたんだよ。鳴瀬が遠くに行っちゃうんじゃないかって、不安で押し潰されそうで。もうそういうのやめてね。これからはずっとだらだら、見つめあってようね」
断る理由はもうなかった。二人でどこまでも堕ちて行くのを躊躇う理由を、真帆がなくしてくれたんだから。
真帆が最初から望んでいたようになるだけなんだから。
「さぁ、帰ろっか。こんなに広くて、窮屈なお家じゃなくて……息が詰まりそうで、相手を感じずにはいられない二人のお家に」
真帆がもう一度手を引いて、私を連れ出した。私たち二人以外存在しない、家に向けて。
その瞬間、手に持っていたアルバムから一枚の写真が落ちた。
この別荘で撮られたであろう写真。そこには真帆のことを何も知らないで眠る私が写っていた。
わたしたちの人生は終わった。残ったのは、相手のことしか見えない壊れた人形だけ。
相手以外を感じないために二人で定めた、鎖で雁字搦めにされた、相手の思う通りにしか動かない操り人形。
でもそれはとても幸せなこと。だってそれさえ守ってさえいれば、幸せを二人で担保しあえるんだから。
小難しいことを考えなくて、相手が望む通りに振る舞えば、二人は満足なんだから。
「ワタシ以外のこと考えてたでしょ? ダメだよそんなことしたら。ここで二人で閉じてくって決めたんだから」
どちらが言い出したことかはわからない。とにかく、鎖がまたひとつ無意味に増えそうだ。