神薙羅滅の百合SS置き場

百合しか書かないし、百合しか書けない! 陰鬱な百合がメインのブログになります

心を貴女に委ねたら

<あらすじ>

 感情の一切を表現できない少女。人の感情に釣られてしまう無感情の少女。

 二人は義理の姉妹になった。互いが互いの欠点を補い合う、外付けの欠けた自分の機能として。

 

 

 きっと、私と沙癒は二人で一つだった。なのに私たちは遠く、離れて産まれてきてしまった。

 ありえないほど時間的にも空間的にも……そして血の繋がりさえも。

 沙癒との出会いはそれほど劇的ではなかった。今年の初めに親が再婚して、相手の連れ子だったから、姉妹になっただけ。

 顔も体格も、髪の色さえ、何もかも似ていない。血なんて毛ほども繋がっていないのだから当然だった。

 でも、きっと元々の魂は一つだったと……それが何かの不運で別れてしまったと、それだけは確信出来た。

 

 私は産まれた瞬間から感情を表現出来なかった。心に喜怒哀楽はちゃんと存在するのに、それが行動や表情に反映出来ないのだ。脳の障害だとしたら、かなり悪質な部類だと思う。

 私に許された行動は、実務的な物だけ。食べて、寝て起きる。それしか出来ない。

 それらの行動だって、自由に出来る訳ではない。生命活動に著しく障害が出始めるまでは、自力でそれらを解消することは許されなかった。

 徹夜程度の睡魔では、私の脳は感情的な不快感としか認識せず、過労死寸前になり、気絶するまでは意識を暗く閉ざすことさえ出来ない。

 食物を摂取することも、餓死寸前になるまでは、自分の意思では口に入れられず、重度の空腹感でさえも、誰かに無理やり口に物を捻じ込んで貰うことでしかなかった。

 日常生活を送るだけで生命活動が危ぶまれるのも相応に問題だが、この障害は私が人生を楽しむことさえも困難にさせている。

 好きな物があったとしても、それを自分から手に入れる行動も取れず、誰かに察してもらうしかない。

 でも喜怒哀楽を他人には推察出来ないから、嫌な物を与えられてたり、逆に好きな物を取り上げられたりしたことも少なくない。

 自由意志を極限まで削ぎ落とされ、まるで機械のような私。でもその内面はどこまでも人間なのに、誰もそのこと理解してくれなかった。

 

 そんな私の埋め合わせをするように、沙癒は感情がなかった。なのに他人の感情を察知する能力はエスパー以上で、しかも察知したそれに行動が否応なく左右される。

 例えば、沙癒の近くで人がイジメられていたとして、その子が相手に殺意を抱いたりしたら、その感情に沙癒が釣られて、イジメている方を殺そうとしてしまう。

 そんなことが度々起こるから、沙癒は何度も少年院に入った経験がある。

 でも悪いことばかりじゃない。子供が線路に落ちていて、みんなが内心助けたいと願いつつも、恐怖で行動に移せない時、沙癒はためらうことなく子供を助けに行ける。感謝状だってたくさん貰っている。

 だけどこれらのエピソードは、沙癒の目に見えやすい一面に過ぎない。

 本当に問題なのは、沙癒に暴力を振るいたいと願う相手が現れたなら、沙癒はそれを無条件に受け入れてしまうことの方だから。

 沙癒の親権がない方の母親が暴力を振るいたいと願う時には、沙癒は彼女の望む通りの反応を示してあげる、出来の良いサンドバックになってあげていたらしい。

 それが原因で、沙癒の両親は離婚したという。

 突然なんの前触れもなく善にも悪にも移ろい変わる、それでいて酷い虐待を無抵抗で受け入れる、感情の箍が外れた狂人……それが沙癒に対する世間の評価。

 でもそれは全く的外れで、その実、沙癒は他人の感情に引き摺り回されているだけで、いくら恨まれようと、感謝されようと、心が存在していないから何も感じていない。

 表面的には激情の体現者なのに、内面はどんな機械よりも機械的な少女……それが沙癒という人間だった。

 

 全く逆の感情についての欠点を抱えている私たち。共通しているのは、誰にも理解されず、気味悪がられていること。

 沙癒は除け者になっても感情がないから平気みたいだけど、私はそうもいかず、なのに平気に見えるから辛かった。

 そんな私にとって沙癒は、人生ではじめて出来た、私を寸分違わず正確に理解して、表現してくれる人だった。

 私だけが沙癒に助けられている感じがするけれど、それでも私はお互いの欠点を上手くお互いを補い合っていると思いたい。

 少なくとも互いに欠けた魂の一部だと思えてしまう程度には、依存し合っているように、見られてはいるのだから。。

 私は日々の生活の不便を沙癒に補ってもらう。そして沙癒は、沙癒の身に降りかかる理不尽に私が怒り、その感情を沙癒が察知して、その場から立ち去る。

 感情のない沙癒にとって私は特別でもなんでもないかもしれない。だけど放っておくと、暴力を振るい、理不尽に暴力を振るわれ、無秩序に傷を増やしていく沙癒が、正常な感情を心に描く私といる時間が増えたことで、体に刻まれる傷の数が減ったのは紛れも無い事実だった。

 

 

 

 沙癒と姉妹になってから初めての夏休み。夏休みになってから、私と沙癒が接する時間は爆発的に増えた。

 ただでさえ依存気味なのに、感情のブレーキが段々と効かなくなりはじめている。

「菫お姉ちゃん、喉渇いて苦しいんだ。炭酸がいいんだね。取ってきてあげる」

 感情の起伏が全くない機械的な声質と行動。知らない人が見たら酷く不気味な光景だろう。そうでなくとも、全く動かない私と、言葉を介さずに私の考えを察知して動く沙癒を見たら、異常を感じない方が異常だろう。

 でもそんなことはどうでも良い。私の代わりに冷蔵庫へ、飲み物を取って行ってくれる最愛の沙癒を見つめながら、例年通りの夏を過ごさずにいられたことへの感謝を、胸に敷き詰める。

 喉が渇いても、初期の不快感だけでは、感情にしか作用していないから行動に移せない。命に危機が生じる、熱中症寸前になってはじめて私は、生命維持活動の範疇に入り、飲み物を取りに行ける。親が定期的に水分補給することを忘れるだけで、私は生死の境を彷徨っていたのだ。

 冬も似たようなもので、自分で着れるのは凍え死なないで済む最低限までで、それ以上は誰かに無理矢理着せてもらわないとダメ。そして、目的地に着いて暑過ぎたりしても、死に直結する暑さでなければ自力では脱げず、脱げても死なない程度の暑さまで。

 気温に関することだけでも、不便なんて言葉では片付けられない程の激しい苦痛が伴っていた。

 沙癒と一緒にいるとそんなことは起こらなくなった。嫌なことを嫌だと思うだけで、沙癒が察して、全部快適にしてくれる。沙癒が側にいて初めて、感情を表現して、誰かと共有できるようになった。

 沙癒がいてはじめて、私は人間になれた。

「はいどうぞ。……菫お姉ちゃん、私がいて嬉しくて幸せで、ずっと私といたいんだ。ずっと一緒にいてあげる」

 そう言って沙癒は、私の腕に体を絡みつかせてくる。私の気持ちを完璧にトレースして、私が望んだことをしてくれる。

 私が抱いている好意も簡単に見抜いて、その気持ちに応えてくれる。

 一度たりとも味わったことのない、心が通い合うという経験に胸が高鳴る。その気持ちを心に描かないようにするのに苦労する。

 具体的な望みを沙癒の近くで描くのは、お母さんとの約束で禁止されているから。

 沙癒は他人の感情に相対した時に、融通が全く効かない。殺したいと願えば殺すし、私がコーラを飲みたいと願えば、コーラをなんとしてでも手に入れてくる。その時にお金がなければ、万引きも強盗も厭わない。

 沙癒といる時は、幅をもたせた感情だけにしておかないと危険だった。さっきも具体的な飲料名はぼかしてから心に感情を描いた。これなら沙癒が危険な行動に出るリスクを軽減出来るから。

 自分の感情を制御するのは、沙癒の為でもあり、自分の為でもある。

 私はあくまで、沙癒が感情に釣られて危ないことをしないための安全装置。

 その対価として、沙癒の能力を使わせてもらっている立場なのだ。

 私のお母さんと、沙癒のお母さんは愛し合って結婚した訳ではない。

 我が子の幸せを考えた時に、二人を姉妹にするのが最良だと考えたから、結婚しただけ。

 私の感情のせいで沙癒が危ない目にあったら、すぐにこの関係は終わる。それは私でも沙癒の意思でもなく、沙癒のお母さんの意思によって。

 だからこの沙癒への想いは、ちゃんと制御しないといけない。

 日常の苦痛を和らげるという打算で考えてもそうだし、一つの恋の結末として考えてもそうだ。

 わかっている。わかってはいる。でも、心の底で抱いている感情に、幅を持たせるのは難しい。沙癒が好きで、恋愛感情を抱いていて、依存していて、独り占めしたい……

 心の奥底で木霊する願い。これ以上は危ないと理性を取り戻して、感情を思考の隅へ追いやろうと……

「菫お姉ちゃんは、私のことが好きなんだ。恋人になりたいだ。恋人になってあげる。キスもしたいんだ。キスしてあげる」

 自分の失敗に気付いた時には全てが手遅れだった。私が望んだように、床に押し倒されて、唇を塞がれて、舌を入れられる。恋人同士であることの証明として私が望んだように、一本一本指を硬く絡ませてくれる。

 ファーストキスの甘酸っぱさには縁遠い、あまりに深いキスで窒息寸前になってようやく呼吸が解放される。

 私と沙癒の間に架かった透明な橋が、私たちの強い繋がりを表現してるみたいで嬉しかった。

「菫お姉ちゃんは、私とエッチがしたいんだ。エッチしてあげる」

 歯止めが効かなかった。一度唇を重ねてしまうと、その幸福感に全てが吹き飛んでしまった。

 バレたら二人の関係はお終い。感情のない沙癒とこうして体を重ねるのは、無理矢理しているのと同じだから。それは許されないことだ。

 でも、例え無理矢理だったとしても、沙癒は嫌がる素振りを欠片も見せず、私が望んでいることを、淡々と実行に移してくれる。

 頭ではダメだと、沙癒の性質に甘えているだけだと理解しながらも、心に理性が勝てるはずもなく、どんどん私は取り返しのつかない方へと向かって転がり落ちていく。

 私が望んだように、沙癒が乱暴に私の服を破る。無機質な表情をした沙癒に、こうして原始的な方法で愛を注いで貰う。

 側に沙癒がいない時に何度も何度も夢想した光景。それを今、沙癒が、その手で実現してくれようとしている。

「菫お姉ちゃんは、もっとぐちゃぐちゃにして欲しいだ。ぐちゃぐちゃにしてあげる」

「菫お姉ちゃんは、もっと愛を囁いて欲しいんだ。愛を囁いてあげる。大好きだよ、菫お姉ちゃん……ずっとずっと、一緒にいようね」」

 二人で身体を重ねあっている時ですら、遠慮なく挟まる沙癒の機械的な宣言。その後に望んだ言葉を囁かれて、ちょっと思うところもあるけれど、それが沙癒の不器用な愛を象徴しているんだと思うと、なんだか一層沙癒を、とても愛おしくさせた。

 

 時間が流れていることも、体力の限界も……どこで交尾を行なっているかさえも忘れたまま、沙癒に嬲られる快楽に身を委ね続ける。ただこうしたいと空想するだけで、沙癒がそれを叶えてくれる。どれだけ浅ましい願いでも、ただ頭で描くだけで、沙癒は思い通りになってくれる。

 私はこれまで自分の身体一つさえ、思い通りにならなかった。微細な意思表示一つできない、私の気持ちを察してくれるだけでも、感謝しきれないのに。こうして献身的に尽くされたら……どうして沙癒に狂わずに要られるだろうか。

「ただい……ま……」

 沙癒の肌の柔らかさと温もりで、埋め尽くされた脳内に響くお母さんの声。

 上に乗っている沙癒の背後に映るのは、呆然と立ち尽くしているお母さんの姿だった。

 何も身につけないまま、肌を重ねている私たちを見て、言葉を失っている。

 義理の姉妹で交尾している姿を見られて頭が真っ白になる。

 そんな状態でも、お母さんが何を望んでいるかは、はっきりとわかった。

「お母さんは、菫お姉ちゃんと離れて欲しいんだね。離れてあげる」

 絡みついていた沙癒が、機械的な言葉とともに、離れて行く。

 沙癒はその場に存在する最も強い感情に従う。沙癒と続けたい気持ちが弱まり、交尾の停止を望んだお母さんの望みが反映された。

「……菫が望んだこと……なのね……」

 沙癒に感情がなく、人の感情に釣られることをお母さんは知っている。そして私には感情が存在していることも。

 この後お母さんは何を願うだろう……私と沙癒が離れることだろうか……沙癒がこんなことしたのは、全部の私のせいだから……私が沙癒のお姉ちゃんでいる為の約束を破ったから。

 もしそうなったら全部お終いだ。沙癒がいなくなったら、なんの意思表示も出来なくなる……昔の地獄の日々に戻ってしまう。

 そんなのイヤだ。沙癒がいなくなるなんてそんなの耐えられないよ……でも大丈夫だよね? 沙癒は私のこと大好きだから、なにより私はこんなに沙癒のことを必要としてるんだから。離れ離れにならないように、沙癒が全部なんとかしてくれるよね?

「お母さんは、私と菫お姉ちゃんに別れて欲しいんだね」

 でも……私の願いは届かなかった。沙癒が私の願いを踏みにじる言葉を淡々と紡いで行く。

「菫お姉ちゃんと別れてあげる。さようなら、菫お姉ちゃん」

 私に突きつけられた三行半……沙癒が私を残して立ち去って行く。

 ……許せない。私と沙癒の仲を引き裂こうとするなんて、いくらお母さんが相手でも許せない。

 こんなに私たちは仲良しなのに、私と沙癒の気持ちを無視して、強い思いで無理矢理引き離すなんて……

 私の幸せを奪う人なんて……皆死んじゃえばいいんだ。

「菫お姉ちゃんは、お母さんを殺して欲しいんだ。殺してあげる」

 

 

 

 母に畳の廊下を引きずられている。身体中に棘が刺さって、チクチクする。

 実の母にこんな風に扱われるのは、悲しいはずなのに……もう慣れてしまって、何も感じない。

 感情を表現できず、感情がない物として扱われ続けていると、本当に感情がなくなってきている。高校生の私はこんな扱いにも慣れてしまったから、何も感じないけど。

 母が産まれてから一度として、一切の感情を表さない子どもに、愛情を持てていないまま、ここまで育ててくれてたのはわかっている。

 こんな気持ちの悪い子供だったせいで、離婚したのだから、私を恨んでいたりもするのだろう。

 せっかくのお見合いの席に、放っておくと死にかけてしまうから仕方なく、私を連れて行ってくれる。

 こんな虐待紛いの扱いだとしても、感謝しないといけないんだ。

 こんな不気味な子供を見捨てていないのだから……そんな風には全然思えないけど。

 こんな死んだように、死ぬより辛い日々を生きるくらいなら、いっそ死んでしまいたい。自分の意思で体を動かす権利が、一分でもあればそうすることができるのに……

 感情どころか、生殺与奪の権利さえ、私自身には備わっていないのだ。

 

 畳が深く食い込んで血が滲み始めている。こんな私を見たら、お見合い相手にドン引きされると思うけど……

 だいぶ苦心して見つけた相手なのだから、こんな私を見ても何も思わない薄情な人なのだろうか。最悪虐待に加担されるかもしれない。

 そんな絶望的な未来を想像しながら、母が襖を開ける。そこにいた人は、母と同じ年に見える女性と、私と同い年に見える女の子。

 思考がはてなマークで埋め尽くされる。何が何やらわからないまま、座布団に座らされる。お見合い相手に、子供がいるとは聞いていなかった。

 それだけに私の興味は、母のお見合い相手ではなく、女の子の方に向いていた。

 眉をピクリとも動かさず、じっと座布団の上で正座している、その子の体には包帯がいくつも巻かれている。

 それに加えておびただしい数の絆創膏が貼られているのに、全ての傷を覆えてはいない。

 虐待されながら入ってきた私に驚かなかったことを考えると、この子も虐待に近い扱いを受けているのかも。

 原因はわからないけど、私と同じように、この子の表情は凍ったみたいに動かない。

 心の奥がどうかはわからないけど、表面だけでも私と似ているなら、言葉を介さずに心が通い合うこともあるかもしれない。

 なんて子供じみた夢を膨らませる。目の前にあるお茶菓子一つさえ、手が届かないのに、どうして心が通じ会う相手と巡り会えるというのだろう。

 もし通じ合うというのなら、自分の意思では食べられない私の意思を汲み取って、食べさせて見せて欲しい。

「あなたはこのお菓子を食べさせて欲しいんだね。食べさせてあげる」

 その言葉と共に、まばたき以外に動作のなかった女の子が、おもむろに立ち上がって、私の側に近づいてくる。

 そして久遠の彼方に置かれていたお菓子を、私の口元に運んでくれた。

「よかった……菫にもちゃんと、感情があったのね……」

 声の方を向くことは出来ないけど、母のすすり泣く声が聞こえる。

「今までごめんね……これから菫のことちゃんとわかってあげられるから……」

 母が私を強く抱きしめてくれる。これまでの私の扱いを考えると、随分と都合のいいことを言っている気がする。

 それでも……こうしてお母さんに抱きしめて貰うのは嬉しかった。それを伝えることは出来ないけれど。

「お母さんに嬉しいって伝えたいんだね。伝えてあげる。お母さん、抱きしめてくれて嬉しいよ」

 女の子が、私が浮かべた言葉を代弁してくれる。

 何が起こっているのかわからないけれど、とにかく幸せなことが起こっているのだけは、確信できた。

 

 

 

 沙癒を見つけてくれたのはお母さんだった。お母さんのお見合いという形だったけれど、実際は私と沙癒を引き合わせるのが目的だったみたいだ。

 オカルト的な解決策だけど、人の感情を読み取れるエスパーを探していたら、沙癒を見つけたとのことだった。

 沙癒のお母さんの方も、他人の感情に振り回される沙癒に、振り回されるのにうんざりしていて、ブレーキになってくれる人を探していた。

 二人の母の利害は一致し、私と沙癒を会わせるという話になった。

 この出逢いは、少なくとも私の人生を変える出来事だった。

 産まれて一度たりとも、言葉も感情も交わすことの出来なかったお母さんと、色々なことを共有出来るようになった。

 初めて親子になれた。沙癒がいてくれたから、私はお母さんの子どもになれた。人間になれた。

 ありがとうなんて、月並みな言葉では感謝しきれない。きっと沙癒は、どれだけ感謝しても、喜んでもくれなければ、頬の一つも動かさないだろう。

 だとしても、感謝しかなかった。

 沙癒に恩返しをしないと。沙癒の安全を守るくらいなら、私でもきっと出来るから……

 

 

 

 こんなことをしたい訳じゃなかった。ほんの少しの……本当にちょっとの気の迷いで、人を殺したいと願っただけだった。それくらいなら普通に誰でもあることなのに。

 だけど私の側には沙癒がいた。他人の願いを無秩序に叶えて行く人間が。

 気付いた時には、お母さんは血の海に沈んでいた。沙癒が花瓶を手に取り、それをお母さんの頭に叩きつけて……脳漿が辺りに飛び散る。

 後悔という言葉では到底形容しきれない。私が意思決定できたのなら、お母さんを殺すことは絶対になかった。

 返り血に塗れた沙癒を見る。人を殺した高揚感に酔うでもなく、自責の念に駆られている訳でもない。いつも通りの機械的な沙癒のままだった。

 私のせいで、普通の親子関係ではなかったかもしれない。それでもお母さんは私を愛してくれていたし、私もお母さんを愛せるようになれた。

 沙癒が私とお母さんを繋いでくれた。その沙癒が、私とお母さんを……ううん、違う。私のせいだ。沙癒がお母さんを殺したんじゃない。我を失った私がお母さんを殺したんだ。

 沙癒と過ごす時に注意しないといけないことを、怠ったから。

 

 愛する家族を自分の手で殺めた実感が、体の奥から湧いてくる。それが嗚咽に変化することは決してない。

 感情を表に出すことは、こんな時でさえもできないのだから。

 私はどうすればいいの? お母さんもいなくなって、このままじゃ沙癒までいなくなっちゃう。

 ただ沙癒と肌を重ねたいと、そう願っただけなのに……全てを失うの?

 いやだいやだいやだいやだ。

 もうすぐ沙癒のお母さんも帰ってくる。この死体と血に塗れた沙癒を見れば、引き離されるに決まってる。

 逃げるしかない……どこか遠くに、沙癒と二人で。

 「菫お姉ちゃんは私と二人で逃げたいんだ。二人で逃げてあげる」

 私の願いを察知した沙癒が、手を引いてくれる。

 どこへ連れて行ってくれるのかはわからない。だけど、沙癒が側にいてくれるのなら、昔みたいな、人間未満の生き物にはならないでいられる。

 私を人間にしてくれる沙癒がいてくれるなら、生きる場所はどこでもいい。

 

 

 産まれて初めてだった。自分の意思で、玄関の扉を開いたのは。

 物理的な意味で扉を開けたのは沙癒で、側から見れば私は沙癒に引っ張られているだけ。

 だけど、間違いなく自分の意思で扉を開いた。

 嬉しかった。

 外はにはいろんな感情が渦巻いている。前向きな物も、人には話せない後ろ暗い物も。

 感情の坩堝の中に沙癒を連れて行けばどうなるか分かったものじゃない。

 だから沙癒を外へ連れていくことは禁止されていた。

 でも、お母さんがいなくなって、沙癒だって引き離される未来が見えていて……もう失うものなんてない私が、沙癒を使って自由を謳歌するのを躊躇う理由はない。

 どうせ同じことだから。全部失うことが約束されているのなら、最後くらい自分の意思で生きてみたい。

 

 沙癒が前を走って、私はそれに引っ張られて、街を行く。

 見慣れた風景でも、誰かに連れられている時とは、違って見えた。

 沙癒と二人で歩く世界は、どこか輝いていて。

 お母さんを失った孤独感と、退路は既にないという高揚感が、この逃避行をどこか楽しげなものにさせている。

 沙癒と出逢った。それだけでは自分の思い通りになんてならなかった。

 沙癒が問題を起こさないように、沙癒の母親が決めた規則で雁字搦め。

 私の意思が介在する余地なんて、ほとんどなかった。もちろん沙癒の意思も。

 心の何かが欠けたままの私たちは、二人合わさってはじめて人間になれる。

 機械のように生きることを強いられた私たち。ギリギリ譲歩できる最低限の自由意志を、生まれて初めて手にしている。

 お金も、未来もなさそうだけど、この逃避行は楽しいものになる。良い思い出になる。そんな予感があった。。

 

 なんて思っていたけど、私たちが二人の逃避行は、たったの二時間で終わりを迎えた。

 十五年間、問題行動を絶え間無く起こし続けてきた沙癒を、なんの対策もなしに、見ず知らずの私に預けておくはずがなかったのだ。

 そんなこと冷静に考えれば分かったはずなのに。

 

 沙癒の体には、何か発信機が埋め込まれていて、それを辿って沙癒の母親が現れた。その隣には、警察の人もいる。

「お母さんは、私におとなしく従って欲しいんだね。従ってあげる」

 突然目の前に現れた追跡者に混乱する私をよそに、私を庇うように立ってくれている沙癒の意識を、沙癒の母親が奪う。

 沙癒は私の方をちらりと振り向くこともなく、自分の母親の方に向かって歩いていく。

 行かないで……私をひとりにしないで……

 そう強く願っても沙癒は歩みを止めない。あの母親は、自分の娘をどうすればコントロールできるかを、私より“心得”ているんだ。

 あの家で何が起こったのかを察しているのだろう。私に視線を合わせることもなく、沙癒を両腕で抱きしめて向こうへ行ってしまう……

 追いかけたいのに! 沙癒を奪わないでと叫び出したいのに! 私の足りない部分を埋めてくれる、私の一部を返してと、赤子のように泣き喚きたいのに!

 どれも許されない……感情を表現できない私は、何よりも大切な、沙癒が視界から消えるのを、ただ漫然と見つめていることしかできなかった。

 沙癒がいない私は、沙癒を求めることさえ許されなかった。

 

 沙癒は殺人罪か何かで捕まるのだろうか……少なくとも、私と沙癒の人生が交わる瞬間は二度と訪れないだろう。

 いやだ……寒くても暑くても、自分ではどうしようもなくて……喉の渇きも、空腹も、何一つ自分では解消できない、置物になんて戻りたくない!

 沙癒のためとかどうでもいいから……苦しみたくないから……私のためだけに、沙癒に戻ってきて欲しい。

 一人で生きていける自分の母親じゃなくて、一人では呼吸さえままならない生物未満の私を選んで欲しい。

 私から沙癒を奪おうとする人たちなんて、殺すなりなんなりして、帰ってきて欲しい……

 

 

 どうしようもなくうなだれて、地面を見つめていると、ボールのような何かが三つ飛んできた。

 それと一緒に、血に塗れた沙癒が……帰ってきてくれた!

「菫お姉ちゃんは、私に頭をなでなでして欲しいんだ。なでなでしてあげる」

 沙癒がこんなどうしようもない、私の頭をなでてくれる。

 暗くてよく見えなかったけど、飛んできた物は、人の頭部だった。

 二つはさっきの警察官。残りの一つは……沙癒の母親だった。

 胃がひっくり返ったような、吐き気が止まらない。

 自分への嫌悪感が抑えられない。

 祈りが通じたら、人が死ぬって分かっていたのに……沙癒を手にするために、どこかでそうなることさえも望んでしまった。

 そんな自分が、何よりもいやで、嫌いでたまらない。

 この短時間に人を四人も殺して、四人も殺させておきながら、私は沙癒がどこかに行ってしまうのではないか。それが心配でたまらない。

 私を守ってくれる家族はもう残っていない。

 良心と呼べる物が残っていたとしても、私にはそれがあると主張する権利もない。

 生まれた瞬間から、大切な機能が奪われていて、微かに手にしていた何もかもを失ってしまって……私に残った最後の拠り所は、沙癒だけだ。

 目の前にいる、頭を撫でてくれる無表情の沙癒が、私に残った全部。

 その沙癒さえいつまで側にいてくれるかわからない。

 私がこれほど依存しているのに、コツさえ掴んでしまえば、沙癒を奪われてしまう。

 心の拠り所がない今の私に、その恐怖は、とても抱えきれるものではない。

 一度考え始めてしまうと、左舷なく、その不安が押し寄せて、頭を埋め尽くす。

 今はこうして目の前にいてくれるけど、他の人が近づいてきたらどうなるか……

 沙癒がもう私から離れて行かないような安心が欲しい。

 誰かの強い意志につられて、私を捨てたりしないような安心が欲しい。

 沙癒が私以外の意思で、どこかにもいけないようになって欲しい。

 

「菫お姉ちゃんは、私についてる脚が邪魔なんだ。捨ててあげる」

 慣れ親しんだ、沙癒の機械的な宣言。

 自分の犯した過ちに気づくが、手遅れだった。

 

 

 

 思い返せば、私が沙癒にしてあげたことが一つでもあっただろうか。

 沙癒の感情を代弁してあげてるつもりだったけど、あれは単に私の沙癒が、誰かの感情を代行するのが許せなくて……いやだっただけで、沙癒の本心じゃない。

 そもそも沙癒の本心ってなに?

 教えて! 教えてよっ! 沙癒の本心ってなに!?

 沙癒は答えてくれない。心に何度描いても、強く強く願っても。いつもなら機械的に答えてくれるのに。

 今は壊れた機械のように、固まって動かない。

 わかってる。沙癒に本心なんてはじめからないんだ。答えなんて初めから存在していないから、何も言ってくれないんだ。ただ私の強い感情に引っ張られて、私にとって都合がいい沙癒を演じててくれたんだ。

 空っぽの沙癒を私が埋め立てて、それを沙癒の本心だと自分に言い聞かせて、依存してた私が……はなから間違ってたんだ。

 

 でもだったら……そもそも本心なんてないなら、なにしても沙癒はいやがらないんだったら、なにしても……いいよね?

 私に都合がいいように造り変えても問題ないよね?

 愛を囁いて貰っても全然構わないよね?

 だって沙癒は、ただの機械なんだもん。他人の感情を模倣して実行する機械。

 私が使い潰しても、私だけが独占しても大丈夫だよね?

 だって私には沙癒が必要だから。沙癒なしじゃ日常さえ覚束ないんだから。

 その点、沙癒は誰でもいいもんね。私じゃなくても。自分をコントロールしてくれる人さえいれば。もしかしたら、それさえも必要ないのかも。

 だったら私でいいよね?

 沙癒は返事をしてくれない。どうでもいいから。私でもいいなんていい加減な理由じゃない。

 沙癒の心は虚ろで、無その物だから。何にも詰まってないのだから、沙癒の意思を聞いたって、答えられるはずがない。

 その点、私には意思も感情もある。

 私にないものを外付けで補ってくれる沙癒を求めて何が悪いの。

「菫お姉ちゃんは、自分が悪くないって言って欲しいんだ。言ってあげる。菫お姉ちゃんは何も悪くないよ。好きに生きていいんだよ」

 私のせいで、両足を失くした沙癒がこう言ってくれている。

 どうしようもなくなった私に、沙癒が勇気をくれる。

 二人でどこまでも、どこまでも堕ちていける覚悟を。

 

 

 

 

 私と沙癒は閉鎖病棟にいる。

 私が望んで、この暗くて、何もない地の底を、二人で過ごす終の住処に選んだ。

 未成年であることにかこつけて、牢獄なんて他人に介入される場所は選ばなかった。

 誰もが見放してくれる、ここに身を堕とした。

 誰も近寄らないから、私の沙癒が誰かの感情に釣られてどこかに行ってしまう危険はない。

 ここでなら安心して最後まで、沙癒を独り占めにして、人間の私でいられる。

 もう、うんざりだ。ここに二人揃って閉じ込めてもらうまで、沙癒はあらゆる感情に振り回されて、私に全然構ってくれなかった。

 どれだけ強く強く願っても、沙癒を私だけのものにすることはできない。

 沙癒が私以外の方へ、這ってでも向かう姿を目にしたときには、心臓が潰されたのかと錯覚した。

 二人っきりで世界を閉ざさない限り、沙癒はどんな体になろうが、どれだけ私に臨まれようが、私から離れて行ってしまう。

 身動きの取れない私が、法も倫理も無視して、辿り着いたハッピーエンドの終着点がここだ。

 同じ部屋に閉じ込めてもらうのは、困難を極めたけど、なんとかそうなれた。

 もし引き離されたいたらと思うと……自死すら選べない私が、こんなところで一人きり……

 生き地獄なんて生易しい言葉では言い表せない。 

 

 生まれた瞬間から、大切な機能が欠けていた私が、満場一致の幸せな結末を迎えられるはずがない。

 欠けていた機能を取り戻すこともできないのだから、有り物で満たされる道を模索するしかなかった。

 愛する人がそばにいて、その人が私を人間たらしめてくれる。

 その為に数えきれなほどの人間性を捧げた。

 お母さん、沙癒の母親、無関係の人々……なにより、何よりも大切な存在であるはずの沙癒の人生。

 公開で涙が溢れることはない。そんな人間らしい機能、私には不釣り合いだから。

 ここまでして沙癒を手にしたかったわけじゃなかった。

 自分一人でなら充分抑えられる感情と衝動だったのに。

 それが暴走して、どうしようもない状況に追い込まれて、その過程で大切なものを失い続けた。

 沙癒が外付けで私の機能を補ってくれても、こんな場所ではその意味があるのかも怪しくて。

 真面目に今の状況に目を向けると、気が変になる。

 全部全部、何もかもを忘れて、隣に寄り添ってくれている、沙癒の温もりに没頭するしかない。

 それで辛いことも、いやなことも忘れるまで愛してもらう……

 

 優しい言葉をかけてほしい。私が望んだ、がらんどうの言葉を、溺れてしまうほどに浴びせてほしい。

「菫お姉ちゃんは、今を肯定して欲しいんだ。私は誰か一人の物になりたかったから、これでいいんだよ」

 歯が浮くようなロマンチックな言葉ではないだとしても、私を救ってくれる言葉。

 これが沙癒の意思によるものでないのは分かっている。それでも嬉しい。

 沙癒の心を探して、それが存在しないのはわかっている。そうと割り切って今を享受する。

 

「菫お姉ちゃんは、私に心がないって答えてほしいんだね、そう答えてあげる。私には心がないから、自由にしていいんだよ」

「菫お姉ちゃんは、私に心があるって答えてほしんだ。そう答えてあげる。私には心があるから、この愛は本物だよ」

 沙癒は私の望んだ答えをくれる。言葉をくれる。

 心がないのだとしたら、自由にしていいと言ってくれた。

 心があるのだとしたら、愛は本物だと言ってくれた。

 深く考えるのはもうやめて、この暗闇の中で、瞳を閉じて沙癒に溺れていよう。

 明日も、その次の明日も。この閉じた世界を、私が認識できなるその日まで……