神薙羅滅の百合SS置き場

百合しか書かないし、百合しか書けない! 陰鬱な百合がメインのブログになります

少女は人形に恋をする

 お人形とお話ししたいって、誰でも一度は思うよね。わたしもそう。そういう子たちと違ったのは、年齢を重ねても不可能を追い求め、願いが叶うことを祈り続けた。
 違うのは本当に、ただその一点だけ。

 誕生日に貰ったお人形はとても可愛くて、大切で、なによりも大切なお友達。
 たくさん習い事をさせられて、社交的であることを強要され続け、それに応え続ける毎日。弱いわたしを見せられるのは、このお人形さんが相手の時だけ。
 お母さんたちが、気まぐれでくれたこのお人形さんだけが、まっとうな愛の象徴。だから、とっても甘えた。
 お人形だけが本当の心の拠り所。そんな人生、誰も許してはくれなかった。
 学校で午前も午後も奪われて、夜と休日は習い事と受験勉強。
 だからお人形と遊んだり、お話ししたりする時間はどんどん減っていって、最後には他のお人形やぬいぐるみと共に、押入れの奥へと押し込まれた。

 小学生にもなって、ましてや高学年にもなって、お人形とお話ししている私をお母さんたちは気味悪がった。 
 お母さんたちが望む娘でなくなると、望んだ通りになる環境を整えられる。奪ったり、怒鳴ったり、殴ったり……周りの人たちは誰も助けてくれなくて……
 数少ない逃げ場所だったお人形がいなくなって、絶望したわたしは、心の中に世界を作って、本当の自分をそこに住まわせてあげるしかなかった。

 お母さんたちの望む優秀で完璧で、誰にでも自慢出来る女の子。そんな風に自分を無理矢理飾り立てられ、疲弊した心を空想で癒してあげる。
 一面に広がるお花畑の真ん中にある、風車のついた小さなお家の中で、あのお人形と二人で暮らす。
 誰かの都合に振り回されることに疲れ果てたお姫様。そんなわたしを連れ去ってくれたお人形の騎士様。
 そこにあるのは、愛し合う二人と、彼女たちを包み込む綺麗な世界。花園はしがらみから逃れたい二人の生活を覆い隠してくれる。そんな物語。 
 最早メルヘンともいえない馬鹿げた空想の世界に、人形を奪われた十歳の時からずっと、中学生になっても、高校生になっても、逃げ込み続けた。

 賢い中学に入ったら、もっと賢い高校に。次はもっと賢い大学に。その次は何を望まれ、叶えることを強要されるのだろうか。
 私の為、という善意で飾り付けた醜悪な感情に晒され続け、こんなことにいつまで付き合い続けなければならないのか。
 暗澹とした気持ちは、次第に空想の世界まで飲み込んでいった。
 わたしを攫いにやって来た悪い人たちの腹を裂いて、首を落として、辺りを真っ赤に染め上げてくれるお人形の騎士様。
 最初は綺麗だった花園は、気付けば現実でわたしを縛り付ける人たちの血肉で、赤黒く染まるようになった。
 たった一つ変わらなかったのは、もう何年も会うことが出来ないでいるお人形がわたしを愛して、護り続けてくれるということだった。

 

 


 高校一年生の修学旅行。訪れたのは、心身を鍛えるという名目で建立された山奥にあるお寺。
 そんな薄気味悪い理念を掲げるお寺をわざわざ旅行先に選ぶ学校も、そんな学校に通わせる親もまともなはずがなくて、楽しいとされる修学旅行は悲惨を極めた。
 朝から晩まで、勉強、勉強、勉強。何がしたいのか、どんな展望があってこのような行為を強いているのか、それを聞いても、教師たちは答えられないだろう。
 だって、ただ苦行を強いているだけなのだから。
 出資者たる親たちが望んだように、生徒全員に虐待を施しているだけ。
 親の言うことを、目上の言うことを聞く従順な子どもを作り上げるための行為。
 五日間に渡る修学旅行……三日目にして、こんな無為なことにお金をかけるお母さんたちに、そもそもこんなことに今まで付き合っていた自分が急に我慢出来ないほどにバカバカしくなって、真夜中に抜け出した。

 あまりに不自由に生きていると、ほんの少しのことで、まるで空を飛べたような気持ちになる。
 真っ暗な山道を一人で歩く。朝になったら、私のことがバレて、探されて、捕まって……怒られるで済めば良い方か……
 あまり良い結果を招く行動とは思えないけど、だけどいま凄く、生まれて初めての自由を感じている。
 それが紛い物なのはわかっている。こんな車もろくに通らない山奥で、一人じゃそう遠くには行けない。
 お金もないし、手元にはカバンと機能制限の掛けられた携帯があるだけ。
 それでも、これがわたしに出来る最大限の反抗だから。
 勇気を出して、支配から抜け出した。その事実がなによりも尊かった。
 ……だけど、偽物の自由だけでは足りなかった。幸せじゃなかった。愛が欲しかった。
 お金がなくても、食べ物がなくても、あんなに望んだ自由さえなくても、愛さえあれば幸せ。
 背負っているカバンには空きがあるから、そこにあのお人形が入っていたなら、それだけでこのささやかな脱走は、物語めいた煌びやかな逃避行になったのに。
 お人形の騎士様がいないと、理想の花園には辿り着けない。なぜなら、あの場所は彼女が見つけてくれた場所なのだから。
 
 わたしの考えた、ありもしない物語。だけど、今のわたしにはそれだけが希望。
 そして最悪なことに、この物語を始めた瞬間から、登場人物は足りていなかった。
 そのことに気付いた瞬間、舞い上がっていた気分は、お人形が押入れの奥に押し込まれた時の気分になった。
 この脱出劇の結末が悲惨な物しかない。そんな当たり前が重くのしかかった。
 お人形がカバンに入っていたところで、現実を変えてくれるなんてありえない……お人形が現実を救ってくれるなんてありえない……
 そんなことわかっているけれど、でもお人形の騎士様は実在している。夢の中で何度もお話しして、愛を囁きあったんだから。
 山奥でガードレールもない崖がある。真夜中でどれくらいの高さかわからない。
 私が死ねばあのお母さんたちは、私の持ち物を処分してくれるだろう。
 そしたら、時間差はあるけれど、わたしとお人形の騎士様は同じところに行ける。
 お家に帰っても、あそこは安らげる場所じゃない。
 だったら、もう終わらせよう。夢想に浸るのは止めにして。
 身を投げることが、お母さんたちに出来る最大の抵抗なんて、寂しい人生だった。

 

 目を覚ますと、そこは森の中だった。体には怪しげな注連縄が絡み付いている。
 どうやら、幸か不幸か、これがクッションになって助かったらしい。
 遭難するくらいなら、死にたかった。そう思いながら、絡み付いている注連縄から降りる。
 辺りを見渡すと、なんだかここは普通の森とは違う。
 よくわかんないけど、とにかく不安になる。夜の学校みたいな、そんな感じの得体の知れない気味の悪さ。
 その上、霧のような何かが辺りに立ち込めていて、数メートル先さえ見えない。
 それでもよく観察してみると注連縄が至る所にあって、なんでこんな山奥にこんなものが……
 怖い怖い。普通じゃなさすぎる。私はただ単に愛されたかっただけなのに。お人形の騎士様と添い遂げたかっただけなのに。
 どうして、こんなところに迷い込んでしまったのだろう。
 とにかく、ここから離れないと。そう思ったのに、ふと気付いてしまった。
 全容は把握出来ないが、この注連縄が円形に何かを取り囲んでいるであろうことに。
 正体なんてわからない。だけど、なぜかそれに手招きされている。
 この注連縄が封印しているであろう、何かに。

 円の中心に向かって歩いた。時計で確認した限り三時間は。
 注連縄の具合から見て、二十分もあれば中心に至っていてもおかしくないはずなのに、どれだけ歩いても歩いても、反対側にさえ辿り着けない。
 真っ直ぐ歩けていないとしたら、この円を取り囲む淵の注連縄が見えてくるはずだ。
 円の中心には何もなく、素通りしたのだとしたら、反対側の注連縄が現れるはずだ。
 わけがわからない。そもそも最初からここはわけがわからなかったのに、わざわざ恐怖の中心に向かうのが間違っていたんだ。
 来た道を戻る。目印はないが、とにかくそうしよう。
 そう決心して振り向くと、目の前には注連縄があった。
 思わず息が止まった。なんで……怖い、怖い、怖い。
 ありえないことが起こって、精神がおかしくなりそう……
 冷静にならないと。意味不明でも、とにかく注連縄が見えたのだから、これを超えて、円の外側へ出よう。
 そう決意して、注連縄を超える……なんらかの妨害があるかと思ったが、すんなりと超えられた。
 思わず何度も確認するが、確かに超えている。
 よかった。本当にそう思う。だけど、念の為に目印をここに置いてから行こう。
 カバンから鉛筆を取り出して円の内側へ突き刺す。
 この深い霧の中で方向感覚を失って戻って来た時、そのことに気づけるからから。
 
「うそ……でしょ……」
 思わず声が出てしまった。三十分ほど歩いていると、目の前にさっき内側に刺したはずの鉛筆があったから。
 背筋が凍った。注連縄を一度も超えていないはずなのに、注連縄の内側に入っていた。
 なに? なにが起こっているの? そもそも、注連縄が円形に結ばれているという推測が外れていたのか?
 円形じゃないなら、注連縄の内側に気付かずにに入ることは有り得る。
 確かめないと。そう思って注連縄を掴みながら歩く。
 するとほんの二十分足らずで、目印の鉛筆が目に入った。勿論その間、注連縄に切れ目なんて一切なかった。
 得たのは答えになっていない答え。空間が歪んでいるという、理解を超えた回答。そんな非現実的な答えしか、もう考えられなかった。
 どうしてこんなことに……一度死のうとした人間が、虫のいい話かもしれない。だけど、死にたかっただけで、どんな目にあっても良いと思ったわけじゃない……
 どうやったらこの空間から出られるのかわからない。携帯を開いて時刻を確認するとちょうど正午だった。 
 わたしを探していたりするのだろうか。自分の所有物が零れ落ちたことに気付いて。
 家にも学校にも私を護ってくれる人はいない。
 現実を離れても、わたしの望んだ花園ではなく、こんなにも孤独で、気味の悪い場所しかなかった。
 この世界には、わたしを護ってくれるお人形の騎士様はいなかった。
 お腹もすいたし、歩き疲れて……疲れのせいなのか、ここに迷い込んでから消えてくれない、不安感がどうしようもないくらいにまで膨らんで、地面に座り込んでしまう。
 
 絶望的な気分に包まれ、最後に救いを求めて、頭に浮かんだ姿は、お母さんたちではなく、お人形の騎士様だった。
 一緒に入られた時間は少ないけど、心の中でずっと支えてくれたわたしの思い人。
「……もう一度、会いたかったな」
 こんなことになるのなら、お母さんたちに殴られたとしても、押し入れから出してあげればよかった……でもそんなことしたら、捨てられちゃうから……それがわかっていたやらなかったけど。
 あぁ……なんて絶望的な気分だろう。全部、全部、わたしを取り囲むモノ全部お人形の騎士様が壊してくれたら……

 よかったのに。

 抗えない眠気にうとうとして、瞬きをする……そしたら、目の前にさっきまで存在していなかった社があった。
 あまりに唐突なことで驚いてもいいはずなのに、なぜだろう……そこにあることのが当然で、見えていなかったさっきまでの方がおかしい。
 そんな感覚があるから、驚きや恐怖よりも納得の気持ちの方が大きかった。
 社は大量の注連縄で雁字搦めにされていて、神聖なものが祀られているような雰囲気は微塵も感じられない。
 注連縄からは、何かどす黒いものが内側から溢れ出していて、人間の力でも引き千切れそうなほどに傷んでいる。
 人間のお前でも今なら破壊出来るぞ。そんな言葉が脳内に響く。
 その声は、声ではないのに確かに声で、よくわからない言葉なのに理解が可能で。
 社の中にあるものは、決して外に出していけない代物であることを本能が理解している。
 だけど……この社の中には、わたしがずっと思い描いていた花園と、お人形の騎士様があるような気がして。
 いけないと理解しながらも、特にこの世に執着していなかったから、どうなってもいいやという投げやりな気持ちで、注連縄を乱暴に引き剥がした。

 百本近い注連縄を剥がし終えると、こじんまりとした社がようやく姿を見せた。
 注連縄の劣化を考えると、その社はあまりに綺麗すぎた。あまり意識していなかったけれど、この周囲を取り囲んでいる注連縄もやけに真新しかった。
 社を取り囲む注連縄だけが不自然に、傷めつけられていた。きっと、ここに祀られている物がそうさせたのだ。
 ほんの少しだけ躊躇ってから、社を開く。

 
 そこで祀られてあったのは……言葉にするのも嫌になる、胎動している肉の塊だった。
 やっぱり祀られていたんじゃなくて……封印されていたんだ。
 重さは五百グラムもないで肉塊の表面にはたくさんの眼球が浮かんでいて、それが一斉にわたしを見つめている。指とも触手ともつかないなにかをこっちにむけて伸ばして……
 いやっ…‥これはもう、この世に存在していい物じゃない。ここにきてからの不安感は、絶対にこれのせいだ。
 本能がこの肉塊を感じ取っていた。それに対する防衛本能だった。
 それに従っていればよかった。ここから出られなかったとしても、こんな存在を解き放つくらいであれば死んだ方が、絶対によかった。
 後悔なんて最早無意味で、触手が体に触れてくる。


 激痛が肉体と魂を蹂躙した。
 とにかく痛くて、痛くて、どうしようもない。
 痛みだけでも頭が一杯なのに、膨大な記憶が流れ込んでくる。
 藁の建物が立ち並ぶ村を歩いてた時に見つけた、行き倒れの少女を助けたせいで、体が次第におかしくなっていき、全身に眼球が生じて、指が触手になり……最終的にはさっきの肉塊へと堕ちてしまった、苦痛に満ちた女の子の太古の記憶。
 助けた少女と共に屋敷に囚われ、他にも似たような異形がそこにはたくさんいて、その異形たちは全員別々の社に注連縄で封印を施された。
 触れた存在を無差別に異形化させていく、呪われた少女の行方は、この記憶には宿っていない。
 それでも、一つ確かなのは、この見ているだけで気が触れそうになる肉塊は、ただの被害者ということだけだった。

 


 あまりの苦痛と、気が遠くなるほどに遠大な記憶の濁流に意識を失ったわたしが次に目を覚ましたすと、そこは病院のベッドの上だった。
 この世を冒涜しているとしか形容し得ない肉塊と空間のことは覚えているけれど、その後の記憶がない。
 だけど、とにかくあそこから脱出してしまったということだ。
 あそこでゆったりと弱り、餓死したかったわけではない。だけど、修学旅行から抜け出して、遭難して、入院して。
 お母さんたちになにを言われるかを考えると、それがとにかく憂鬱で。
 崖から飛び降りた時に一瞬で死ねていればと思わずにはいられない。
 ベッドの脇に、お人形の騎士様が置かれているはずもなく、なんだか遣る瀬無い気持ちになってくる。
 それでも幸運だったのは、とにかく目の前にお母さんたちがいないということだろうか。
 ぼんやりと天井を見上げて、これからのことを考える。
 どうせ死ぬ気だったけど、生き延びてしまったのなら、自由を求めて反抗してみようか。なんてことを考える。
 だけど、自力でお金を稼ぐ術を持たないわたしが下手に反抗して、経済的に孤立したら、生きていける気がしない。
 孤立した時に頼る人も、頼る機関があるかどうかも知らないから、どうしようもなさそうで。
 やっぱり死んでおくべきだったなと思いながら、瞼を閉じた。


 次の瞬間、わたしは夢の中にいた。もっと正確に表現するのなら、至る所に映像の写った泡が浮かぶ、黒い空間にいた。
 それを夢という形で認識しているという、漠然とした確信があった。
「ようこそ。貴女のおかげで自由になれたから、お礼をしてあげる」
 この空間には先客がいた。背景の闇に溶けてしまいそうな、真っ黒で表情の判別さえ難しい影の少女。
 不思議な感覚だけど、あの正視に耐えなかった肉塊と同一の存在だと、直感した。
「あなた……なに?」
「ただの人間だったモノかな。見せてあげたでしょ? あんな体に変えられていく記憶を」
 激痛とともに流れ込んできた、怨嗟に満ち溢れた記憶。確かに覚えている。とても現実にあったこととは思いたくない、悍ましい感覚を。
「酷い話でしょ。助けてあげた女の子にこんな体にされて。意図的ではなかったんでしょうけど」
「……そう……だね……」
 なんと答えたらいいのかわからない。少なくとも、わたしの経験を当てはめるには、あまりに常軌を逸していた出来事だから。
「まぁ、そのおかげでこの能力を手にしたわけなんだけど、あの社と注連縄のせいで行使出来なかったから助かった」
「能……力?」
「そう。人の集合認識を夢の形で認識可能にして、選んで現実にする能力。私を助けてくれたお礼に、少し使わせてあげる」
 言っている意味がよくわからない。本当か嘘とか以前に、その能力で叶えたいことなんて思いつかないし、使い方もよくわからない。お礼になっているかと言われたら……
「貴女、小さい頃に貰ったお人形に懸想しているんでしょう? その想いを叶えられるかもしれない」
「えっ……」
 目の前にいる影の少女が唐突に口にした言葉は、わたしを強く惹きつけた。お人形の騎士様と添い遂げるなんで、自分でも頭がおかしいと思う夢が現実になるかもしれないなんて。
「どうやってそんなことを……」
「お人形が動くのは当然。お人形がお話しするのは当然。そんな風にたくさんの人が思えば、私の能力で現実にしてあげる。あそこに浮かんでいる認識が見える?」
 影の少女はそう言ってわたしの真後ろに浮かんでいる認識を指差す。
 電柱から顔を出している黒猫という映像が、泡の形でこの空間に浮いていた。
「黒猫に出会ったら不幸になる。全く馬鹿げた迷信だけど、つまりその程度の認識で十分なの。こうした多くのが人が知っている噂や認識を現実に出来るの。まぁ、あれを現実にした日には、世界中事故だらけになるでしょうけど」
 確かにそれは、日本人なら一度は耳にしたことのある都市伝説。
 信じている人は少ないだろうけど、黒猫を目にしてなんとなく嫌な気分になる人は少なくないはずだ。
 集合認識のイメージがほんの少しだけど、掴めた気がする。
「貴女だけの祈りじゃ、現実にするには足りない。たくさんの人が、人形は動いて当然、人形がお話しするのは当然。そんな風に人の認識をすり替えていくの。そうすればその認識が、ここに現れるはず」
「……よくわからないけど、それってかなり大変なことだと思うんだけど」
「もちろん。だけどその分、自由度は高いよ。お人形に能力を付加することだってやり方次第で出来る。例えば、貴女を縛り付ける邪魔者を殺してくれる能力を人形に持たせることだって可能よ」
 影の少女はこともなげにそう言っているけど、どう考えたって難しい。
 確かにお人形が動いてくれて、邪魔な人たちを始末してくれたら嬉しいけど、そんな都合よく人の認識を誘導するなんて……
 お人形は動いて当然で、そのお人形が人を殺すのも当然……そんな都合の良いお話を信じている人がいるわけ…… 
「あっ……」
 あった。そんな都合の良い話。黒猫の話と同じくらいに知名度があって、漠然と信じている人も多そうな都市伝説が。
「悪いこと思いついたって顔してる。好きだよ、そういうの」
 冗談めかして、影の少女がそんなことを言いながら、さっき見せてくれた黒猫の泡を破っている。破れた泡からは黒い影のようなモノが溢れ出している。
「……本当にお人形の騎士様に護ってもらえるようになるの?」
 日々の孤独感。無条件で助けて、護ってくれる存在が身近にいない、、どうしようもない不安感と孤独感。
 それを拭えるのなら、何を犠牲にしても構わない。実際にどれだけの苦しみが伴うかなんてわからないけど、少なくともいまはそう思うから。
「私はあくまで手を貸してあげるだけ。望んだように世界を歪められるかは、貴女次第ね」
 

「何バカなことをしてくれたの! お母さんたちに恥ずかしい思いをさせないで!」
 ヒステリックに怒鳴りつけてくるお母さんたちの声。いつもなら素直に傷付いて、自分を責めるけど、もうそんな自分とはお別れした。
 面倒なのは嫌だから、反省している風なそぶりは見せておくけど。
「こいつには口で言ってもわからないよ」
 そう言って顔を殴りつけてくる。病院の中でよくこんなことが出来るなと思う。まぁ、こうしてのびのびと虐待するために、個室にしたのだろうけど。
 口の中が切れて、痛いし、鉄の味がするし……いつものことだけど、やっぱり不愉快だ。
「お母さん! お外に黒い猫さんがいたの! 可愛かったー!」
 病室の外でさっきあった出来事をお母さんに、嬉しそうに伝える女の子の声が聞こえる。
 あぁ、なんて健全な親子関係なのだろう。目の前の現実が悲惨すぎて、妬む気持ちすら湧いてこない。
「明日には退院だから。あなたのわがままなんかにお金を使うのは無駄だから」
 そう言い残して、お母さんたちは病室を後にした。
 今回のことで少しでも優しくなってくれたなら。そんな風に思っていたけど、そんなことあるはずがないよね。
 やっぱりわたしには、お人形の騎士様しかいないんだ。
 ずっとわたしの妄想でしかなかったけど、きっと現実のものにしてみせる。
 ……でも、冷静に考えたら自分のあんな荒唐無稽な夢の内容を信じるなんてどうかしている気がする。
 あの迷い込んだ場所も、社のことも、全部幻覚だったのかもしれない。
 だとしても、追い詰められたわたしが縋れる希望なんて、影の少女の言った、現実離れしたことしかないのだ。

 次の日、お母さんたちに連れられて退院の準備をしていると、看護師さんたちの話し声が聞こえた。
 なんでも隣の病室にいた女の子の容態が昨日の夜、突然悪化して死んだとのことだった。


 時代にそぐわなくなり、陳腐化している。だけど知名度も恐怖度も充分にある都市伝説、メリーさんからの電話。わたしはこれを利用することにした。少しアレンジを加えて。
 じゃないと、私がお人形の騎士様に真っ先に殺されてしまうから。愛するあまり殺しちゃうのなら全然構わないけど、怨みで殺されるのはちょっと違う。
 望む認知の形はこうだ。捨てられた人形が意思を持って動き、喋れるようになって、獲物を求めて彷徨う。
 ここまではいつも通り。そこに原典にはない、現代らしいアレンジを加えて流布していく。
 それは、被害者の携帯の中にあるアドレス帳から次の被害者が選ばれるということだ。
 都市伝説らしい、理不尽極まりない殺され方。
 新説メリーさんを広めていく過程で、多少の手は加えるかもしれないが、方向性は決まった。
 このお話であれば、お人形の騎士様がわたしに辿り着いた時、確実にお母さんたちを殺してくれるから。
 なぜなら、わたしは携帯を持っているけど、それはお母さんたちによって管理され、位置情報などで監視するために持たされているだけ。アドレス帳にはその二人しか登録されていないし、他人のアドレスを登録しようものなら怒られる。
 自由のなさに辟易していたけど、そのおかげでわたしのアドレスは世界中に最も死んでほしい二人しか知らない。 
 わたしを縛るお母さんたちを先に殺してからじゃないと、わたしのアドレスには辿り着けない。
 でもこれだけじゃ、お人形の騎士様は、遠い何処かに殺戮旅行に行ってしまうかもしれない。
 原点の性質にあるような気がするけど、万が一があってはいけない。だから、この一説も加えて広めないと。

 メリーさんは携帯のアドレスを辿って、持ち主の元へ帰ろうとする。


「呪いに相当する認識にするのね」
 影の少女に最も現実的と思われるこの案を話す。わたしは彼女の言う能力を当然、把握しきれていない。だから助言を求めた。
「だとしたら、呪いはあって当然という共通認識があった方がいい。世界を滅ぼすとかじゃない貴女の場合なら、この地域は特に呪いが成就しやすいって、こじつけでもなんでもいいから、そう思わせる話を流布すれば、そのメリーさん? なる怪談が成就する確率は上がる」
「……そうした方がいいの?」
「呪いの成り易い地域っていう共通認識があったほうがより確実になる。捨てた人形が絶対に呪われてくれないと、ただ想い人を捨てただけになる。それは困るでしょう?」
「うん……」
 影の少女の言うことは最もだった。原点からしてメリーさんは、捨てた人形全てが呪われてくれるわけではない。あまりに条件が不明瞭だ。だから補助の必要がある。
 でも、そうは言われても、この地域は呪いが生まれやすいなんて、そんな話都合よくあるわけがない。
 ただの町なのだ。樹成町。何の変哲もない。ただそれだけの。
「貴女の住む町に名前はある」
「えぇ、樹成町って言うの……名前のない町なんてあるの?」
「私の住んでた村にはなかった」
「そう……」
 そこに何か強い感情が込められていたわけではなかった。強いて言うなら諦観だった。
「樹成町……じゅせいちょう……現代語には明るくないのだけど、呪成町と当て字に出来るわね」
「それ、あんまり面白くないよ」
「そう言わないの。意外と効果があるから。昔はこの辺りは処刑場で、ある時から周辺の人々が変死するようになった。それ故に元の名は呪成町。と、それらしい話を添えてやれば、らしくなるよ」
「それくらいで本当に効果あるの?」
「存外ね。それくらい、人の認識は歪みやすい。なに、全員が信じる必要はないから。能力の起動が成立する程度に信じる者がいればそれで構わない」
 影の少女が微笑みながらそんなことを言う。
 呪成町と当て字にする。なんとかその話を広めつつ、新説メリーさんを流布していく。
 やったことのない作業だから、あんまり上手くやる自信はあんまりないけど……
「と、まぁ、乞われたから助言はしたけど……本質が呪いなんだから、このやり方だと貴女たち二人が苦しむことになるかもしれない、と忠告はしておくわよ」
「ありがとう。だけど、このやり方じゃないと、お人形の騎士様はわたしを拐えないから」
「それも理解している。だけどね、こんな呪物である私が肩入れしてあげてるんだから、幸せを掴んで欲しいの。ただの偶然だったとしても、貴女があの社から出してくれたのは事実だから」
 真っ当にわたしを思ってくれている影の少女を見ていると、複雑な気持ちになる。
 これほどまでに優しい彼女が、あんな場所に何千年も閉じ込められて、暴言を浴びせて暴力を振るって支配する人間がのうのうと生きているなんて、世の中ままならないなと思う。
「上手くやってね。人を助けて後悔するなんて経験……もうしたくないの」


 人の認識を誘導する。ただでさえ難しいことなのに、行動を制限されているわたしに出来ることは少なかった。
 携帯でインターネットに繋げても、お母さんたちに履歴を監視されているから使い辛い。
 学校にいる友達と呼べるかは怪しい子たちの家庭環境はわたしと似たような物で、口伝えで都市伝説を広げる効果は期待出来なかった。
 なんだか最初から詰んでいる気もするけど、出来ることをした。
 短い時間だけど、学校内のパソコンを使える時間に、少しずつ噂の種を蒔いた。
 黒猫を見かけると不幸になる。その現象が、樹成町……じゃなくて、呪成町を中心に広がっているのが役に立った。わたしの認識も影響されるんだから、ちゃんと呪いが成りそうな名前にして思い浮かべないと。
 樹成町専用掲示板に、黒猫の不幸が広がる中心がこの町である理由を、影の少女が言った話を根拠として、さりげなく書き込んでいく。
 それに合わせて、オカルト掲示板に新説メリーさんのお話を書き込む。
 あまりに些細な、蝶の羽ばたきにも満たない活動だけど、いつの日か実を結ぶと信じて。

 そんな活動を続けて半年が経過した時、夢の中にある空間に、一つの泡が浮かんだ。
 電柱に書かれた町の名前が“呪成町”に書き換わっている。そんな人々の共通認識が形になった泡が。
「思ったよりも早く結果が出たね」
「……もうあの人たちに付き合うの限界なんだけど……」
 影の少女が泡を破っているのを見ながら、思わず日々の苦痛を吐露してしまう。
「あと少しの我慢だから。だけど、もう耐えられないのなら……普通のメリーさんならいつでも現実に出来るよ」
 辛い時に寄り添ってくれる影の少女が、わたしを見兼ねてそんな言葉をかけてくれる。だけど……
「ダメ……ここまで頑張ったんだから、ちゃんと最後までやり通す」
「そうね。その方が賢明だと思う。あと少しで貴女の望んだ人形の騎士様がこの世に顕現するんだから」
 わたしの背中を相も変わらず押してくれる影の少女だけど……真っ黒で表情は読み難いにも関わらず、憂慮が隠し切れていない。
「……詰めの段階だから聞いておくけれど、最後に貴女は人形に襲われることになるけど、それはどう乗り切るつもり」
「どうしようね。ずっと悩んでた……愛の力で乗り切る! ってのはダメ?」
「奇跡を請うのは見逃せない。この超常は幾重にも必然を折り重ねてここまで持ってきた。最後の最後に博打を打つのは、看過出来ない」
「だよね。どうしようか……」
「何かないの? 誰もが信じていて、怪異に対抗出来るような存在は」
 影の少女はまたも無理難題をふっかけてきた。そう言われてみれば、候補はいくつかあるが、お人形の騎士様と過ごすお花園と同じくらい荒唐無稽な案しか浮かばない。
 それに、あまり簡単に誰でも実現可能だと、わたしに辿り着く前にお人形の騎士様が敗れてしまうかも知れない。それではダメだ。
「……魔法少女とかそういうのかな?」
「……本当にこんなのが一般的なのね。驚いた」
 そう言って影の少女は、可愛い衣装を身に纏った少女が怪物を打ち倒している。そんな認識が具現化した泡を差し出した。
「こんな荒唐無稽な認識が信頼出来るのか不安だったから、試してみたんだけど……貴女の運命を委ねるには充分なようね」
 彼女が言いたいことをなんとなく察する。呪いの人形に対抗する為、わたしに魔法少女になれというのだ。
「ほ、本気なの? こんな子どもの妄想を実現させるなんて……」
「貴女が子どもの妄想と口にするの? 確かに、この魔法少女? というのは人によって認識が違って安定していないけど、その分色々と都合がいい」
 彼女の生まれた時代にはなかった概念だからか、手探り感を匂わせる口調で、言葉を続けた。
「邪魔者を全部殺して貴女の元に辿り着いた人形に殺されず、呪いを浄化することも可能。つまるところ退魔師の亜流でしょう? 最適な認識じゃない」
「そうだとしても、魔法少女が溢れ返ったら、途中でお人形の騎士様がやられちゃうかも……」
「それなら、貴女に人形から電話がかかってきた直後に、認識を実現すればいい。これであなたにも人形にも危険はないでしょう?」
 影の少女は魔法少女という概念に先入観がないからなのか、何を疑っているのかという視線をわたしに向けている……気がする。
 上手くいくかはわからない。だけど、彼女のいうことは今までも的確だったし、わたしを気遣ってくれていた。
 認識の具現化という超能力を当たり前に行使してきた影の少女の思考に、単にわたしが着いていけていないだけ。
「この認識はすぐにでも実現出来る。だから、貴女は理想のメリーさんのことだけ考えていればいいから」
 影の少女はわたしのことを考えてくれているのだろう。
 だけど、呪いを浄化すると言う言葉に引っかかる……もし全てが上手くいったとして、魔法少女の力でお人形の呪いを浄化してしまったら……
 騎士様はわたしを傷つける人から護る力は残るのだろうか……

 朝起きて町の名前を確認すると、樹成町から呪成町へと変化していた。さも、今までずっと、こんな不吉な名前であったかのように。
 違和感を持つ人もいるようだけど、まぁそうだったかも、という程度の疑問しか抱いていない。
 自分の手で確かに世界を歪めてみせたという実績。誰にも信じてもらえない功績。だけど、限界寸前で折れそうな心を、添え木のようなか細さで支えてくれた。


 そうして一ヶ月が経った頃、ようやく地道な活動が報われて、新説メリーさんの認識が泡となった。
 あともう少しで、このうんざりするような生活から抜け出して、お人形の騎士様と添い遂げられる。
 だけどまだやらないといけないことがある。本当にこの呪いが想定通りに機能しているか。それを確認してからでないと、お人形を捨てられない。
 もしも捨てたお人形が呪われることなく、処分されてしまったら、本当に取り返しがつかないから。
 影の少女に泡を破ってもらい、少し様子を見た。町で捨てられた人形がメリーさんとして機能しているかを確かめるため。
 親に人形を捨てられたと嘆く同級生とその友人が数日後、自宅で惨殺死体で見つかったの聞いて、メリーさんが実体化したのだと確信した。
 それから私は人形を捨てた……いや、正確にはお母さんたちに捨てさせられた。他の思い入れのないお人形と共に。
 覚悟していたとはいえ……仮初めのお別れとはいえ、本当の離別になる可能性は捨てきれない。
 呪いが不発になったら……そんな不安で押し潰されそうになる。
 だけど、本当にいま苦しいのは、お人形の方だ。
 意識があるのなら、突然捨てられて、廃棄されるんだから。
 どうか、無事に帰って来て。そう願いながら、ゴミ収集車を見送った。

 

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 真っ当な愛を受けたことのない人は、真っ当に人を愛せない。それは、昔ご主人と見たテレビに出演していた、心理学者か言っていた言葉。
 それが真実なら、ご主人が私を真っ当に愛せなかったのは、過ちではなく必然なのだろう。
 その結果として、私は生き地獄を生かされている。他ならぬご主人の手によって。

 ご主人が私に何を望んでいるのか、何を望んでいたのか……私はそれを知った。
 一般的に、主人が人形に望む関係とは友達だろう。でも、私のご主人は、私に愛を求めていた。
 自分の感情を無視して、自分のエゴを時には言葉で、時には暴力で押し付けてくる両親からの気紛れで貰った人形。それが私。
 きっと普通じゃないんだろう。だけど、私は親からの数少ない正常な愛情だったから、ご主人は人形である私に親の愛を求めた。
 最初は私に親を求めていた。この世の理不尽から、たとえ不完全だとしても、可能な限りで護ってくれる、親からの庇護を。
 私と完全に引き離されていた数年の間に、その願いは大きく歪んでしまった。人形に親を求めている時点で、取り返しがつかないほど歪なのに。
 お人形の騎士様。ご主人を護る為なら殺人も厭わない、無敵の騎士。
 ご主人は私に、私の意思を無視して、お人形の騎士様であることを強要した。
 それは彼女が、自身の両親からされてきたのと同じように。それしか、思いやりの手段を知らないかのように。
 
 影の少女と一度だけ会ったことがある。彼女は私に呪力を授けたシルエットの少女とは違う存在だった。
 シルエットの少女に、どこかご主人の面影があったのは、その認識を広めた中心がご主人だったから。そして、ご主人は呪いという物を影の少女が生み出すモノと捉えていたから、呪力を授ける存在が影と見紛う少女の像を姿をしていた。それが影の少女の考察だった。
 そんなこと、その後に交わした、ご主人と影の少女との会話に比べれば、些細なことだった。


魔法少女? の力で、その人形を浄化したのを見届けたら、私は消えるよ」
 認識が具現化した泡がいくつも浮かぶ、真っ暗な空間の中で、ご主人と影の少女が最後の会話をしているのを、のたうち回りながら眺める。
 今にもご主人に喰らいついてしまいそうで、それを必死に抑え込んでも無意味に思えて。もう刹那という一瞬でさえ、耐えられないこの衝動。
 早くこの苦しみから解放されたくて、おかしくなりそう。だけど、私の望みが叶わないことを知っているから、期待なんて持てない。
「早く解放してあげないと可愛そうだよ」
「……この呪いを浄化したらさ、お人形の騎士様は人を殺せなくなるんだよね」
「電話を通じて、動きを封じ、殺す。それは殺人衝動と一体だから、まとめてなくなる。でも、もう邪魔なものはこの世界にないんだから、浄化しても良い頃でしょ」
「そんなことないよ。わたしは護って欲しいの。お人形の騎士様に未来永劫。だから……この呪いは浄化しないよ」
 わかっていたことだ。ご主人が私の呪いを打ち消すつもりがないことは。もしそのつもりがあるのなら、再会してすぐに行っている。
 私の呪いを消したら、ご主人は誰にも護ってもらえなくなる。だから、呪いを浄化したくない。
 それは、自分たちを脅かす存在を自分で殺し、手を汚すのが嫌だからなんて、偽善者ぶった気持ちの悪い理由じゃない。
 ご主人は本当にただ、私に護ってほしいだけ。今だって、私の渇きを癒す為に、家に無実の人間をご主人が連れ込んで、捌いて、食事を用意してくれている。
 魔法少女の力を使って、私たちの幸せな生活の為だけに人を殺す。
 魔法少女の力があれば、警察相手くらいなら余裕で勝てる。そんなの現実的に考えたら、ほとんど無敵。護られる必要なんてどこにもないほど、いまのご主人は強い。
 だけど、ご主人は護ってくれる人が欲しかった。護られる必要のあるなしなんて関係なくて、無条件で自分を守ろうとしてくれる相手が欲しかった。
 ご主人のその気持ちは痛いほどわかる。ご主人と過ごした過去の思い出や、私が押入れに入れられていた時期に受けた悲惨な扱い。
 本来なら親が担ってくれたはずなのに、それが存在しないから、私に求めている。
 その思いを満たしたくて、満たして欲しくて、過剰としか言えない暴力を用いてでも自分のことを護ってくれるような、過剰な庇護を求めている。
 ご主人のことを本当に愛しているから、叶うのならこの力を使ってご主人を護ってあげたい。
 だけど、日に日に飢餓感は強くなり、それに比例して呪力も増大していく一方で、護るどころか、気を抜いたら手にかけてしまいそうで。
 ご主人を護る力が、いつご主人に牙を剥くか自分でもわからない。最初は無理だと思っていたけど、この堪え難い苦痛だけなら、ご主人を安心させてあげられる喜びで耐えられたかもしれない。だけど、ご主人を手にかける自分だけは、許容出来ない。
 そのことを伝えても、「あなたに殺されるのなら構わないよ」と優しく微笑むだけで、まともに取り合ってくれない。本当にそう思っているのはわかるけど、私はそれが耐えられない。
 この呪力を残して欲しい思いと、消し去って欲しい思い。
 私に残された希望は……この二律背反から逃れる唯一の道は、影の少女がご主人を説得してくれることだけだ。
「何を言ってるの。このまま放っておいたら、貴女までこの人形に喰われることになるのよ」
「……よく考えてみて? それって、そんなに悪い結末でもないでしょ? 今はこうして、別々の体で触れ合うのが幸せだけど、いつかそれだけじゃ満足出来なくなるかもしれない」
 ご主人が何を言っているのか、影の少女は理解出来ていない。
 彼女はきっとまともだ。ご主人と私の幸せを願ってくれている。ご主人に恩返しをする為なら、誰がどれだけ犠牲になっても構わないという、盲目さを除けばすごくまとも。
 だからこそご主人の思考についていけていない。安心のためなら、幸せのためならどれだけの苦痛でも背負いこむ破滅的な覚悟なんて……持って欲しくなかった。
「お人形の騎士様に護ってもらうのに、体が別れてたら不安になるかもしれない。今は違うけど……そうなったら、お腹の中で一つになりたい時がくるかも……なんにしても、暴力がないと安心出来ないよ」
「人を助けて後悔したくないって、確かに言ったよね。所詮貴女は私の善意で、願いを叶えてもらった立場なの。だから最初の条件は守ってもらうよ」
 あえてこんな言い方をしたらご主人が折れるとでも影の少女は思っているのだろうか。いや、思ってはいないだろう。
 自分の思いを強い言葉に乗せれば、届くかもしれないと、僅かな希望に賭けている。それは真っ当な思い遣りで、こんな恩着せがましいことを本当は思っていなくて……そのことをご主人は理解しているし、影の少女に感謝している。
 だけど遅すぎた。もう少し早く彼女に出会っていれば、ご主人は両親を殺さずに済んだかもしれない。私とも喋れる魔法のお人形なんて少女的な関係でいられたかもしれない。
「ちゃんと守るよ。この子を喋れるようにしてくれて、本当に感謝してるから」
 ご主人が苦しみに喘いでいる私の口元に、血液を垂らしてくれる。
 現実世界ではとてもこれだけでは満たされない。だけど、なぜか、この世界でくれた血液はとても、私の渇きを満たしてくれた。
「……貴女が今、何をしたのかわかっているの」
「その焦り方……やっぱりこれってイケナイことなんだ。ただの予想だったんだけど、ここにいる私たちの姿って、魂の具現化でしょ?」
 ご主人の考察に沈黙という形で、影の少女は答えている。
 さっきご主人は、自分の魂をくれたということなのだろうか。だとしたら、血よりもご主人の死を求めて止まない渇きが少しは満たされるのは、当然なことのように思える。
「魂を分けてあげたら、この子も喜んでくれると思ったんだ」
「呆れた。こんなこと続けてたら、長くないよ」
「長生きして欲しいの? 興味ないよ、そんなこと」
 魂の欠片を戴いて、ほんの少し渇きは癒えた……だけど、こんなんじゃ、全然足りない。
 全部欲しい。ご主人の全部を喰べないと、満たされないのに……
「……そう。わかった。これが貴女の理想なんだと、納得しておいてあげる……今の所は。ずっと見ているから。何かあったら止めに来る」
「その必要はないと思うよ」
 最後の希望が折れてしまった。ご主人の狂気的な熱意に押されて。
 影の少女は諦観したかのような暗い表情を浮かべて、私たち二人をこの空間から追い出した。
 この決断にどこかで安心する自分と、絶望する自分がいる。どちらにしても、ご主人の理想も、私の理想も叶わないのだから。
 この決断はせめてもの優しさだったのだろう。魂を切り分けて与えるなんて、危険なことをさせないように。
 そんなことをしても、今度はご主人のお肉を喰べるだけなのに。どちらが致命的なのかは、私にはわからないけど。
 

 影の少女との対話から、どれだけの時間が過ぎたのだろう。最近は、ご主人を求める衝動が、魂を焼いていて時間がもうわからない。時計を見ても針がグルグルと回転するばかりで、なんにもわからない。
「はい、今日のご飯だよ」
 ご主人が、釘で手の甲を貫いて、そこから溢れる血液をたくさん私にくれる。
 昔の私だったら、これよりもっと少ない量でもある程度満たされていた。だけどいまでは文字通り火に油で、満たしきれない飢えをより強く感じさせる作用しかなかった。
「他にもたくさんあるからね」
 部屋中にうず高く積み上げられた、食欲を満たせなくなって久しい死体の山。あの人たちには悪いけど、喰べても一切の味すら感じられなくて、死臭を漂わせる生ゴミでしかなかった。
「ご主人……私……もう……」
「……わかった。わたしも、あなたが苦しむところもう見たくないから」
 ついに私の苦しみが伝わったのか、ご主人が念願の物をくれた。
 それはたったいま切断されたばかりの、新鮮なご主人の左手の小指。
 私の待ち望んだ、ご主人のお肉……家畜のお肉みたいに食べるのに邪魔になる物が一切取り除かれていない、純度百パーセントのご主人の指。
 きめ細やかな皮膚、綺麗に切り揃えられた爪、若くて頑丈な骨……本来喰べるのには邪魔でしかない、硬いだけの部位が、なんだかとんでもなく美味しくて……そんな風に感じる自分が嫌だった。

 ご主人に抱きかかえながら、小さな指を貪り喰らいながら、側でご主人を肌で感じているからわかる。
 もうこの衝動は抑えられない。か細い理性だけで、喉元に喰らい付くのを押さえつけるので精一杯。というより、それも最近は時々出来ていなかった。
 ご主人を襲って、魔法の釘で撃退され、少しだけ正気に戻る。だけど、ご主人は私を抑えるのに段々と苦戦するようになってきている。
 ご主人の安定した力ごときでは、日に日に強大になっていく飢餓感と、それに伴う呪力の増大についていけていない。
 今はご主人の切れ端で満足出来ているけど、それも長くは続かないだろう。そもそも、ご主人の体はそんなに大きくはないから、すぐに喰べられる部位がなくなっちゃう。
 どっちが先かなんてわからない。私の呪力が愛するご主人を上回り、ただ誰かに護って欲しかっただけの女の子を喰べているのが先か。それとも、自分の肉体を差し出せなくなったご主人が、私を浄化する決断を下すのが先か……きっとそんな結末はなくて、喰べられることを選ぶのだろう。
 そうなったら、私は独りでこの世界に取り残されることになる。大切なご主人の肉を喰べてまで得た命だから、申し訳なくて自死も選べない。
 そんな未来を想像して、どうしようもない未来に失望する。

 ただ一つ確かなこと……私はそう遠くない未来、ご主人を喰べている……最悪の後悔と、最高の悦びに溺死しそうになりながら。